まず、常識の定義です。ウィキペディアには次のように書いてあります。
常識とは客観的に見て当たり前と思われる行為、社会によって常識は異なるため、ある社会の常識が他の社会の非常識となることも珍しくない。
ラグビーにおける常識とはどんなものがあるか考えると、私が高校に入ってラグビーを始めた頃は次のようなものが常識だったと記憶しています。これは教えられたものではなく、毎日の練習で自然と身についたものです。
高校までスポーツは何もしていなかった私は15人しかいない選手の中でただ一人のポジションさえ決めてもらえない補欠でした。フォワードが8人いたので一応バックスで練習しているのですが、スクラムを組む練習の時には呼ばれてスクラムの台として一緒にスクラムを組んでいました。
そしてフォワードとバックスが一緒になって、試合を想定したフォーメーションではフォワードはアタックの時にはフォローは最初は後ろに向かって走ります。
そしてアタックとディフェンスの練習を行う時には当時の同志社高校は15人しか選手がいないので、右サイドと左サイドに分かれ、8人対7人で行います。
当然、アタック側のフォワードはボールがバックスに回ると、フォローする時には後ろに向かって走るし、ディフェンス側のフォワードはカバーディフェンスに、前に向かってタックルしに出たバックスの選手が突破された場合に備えて、前に向かって走ります。
このような練習を繰り返すうちに、タックルする場所はディフェンス側が決め、アタックの場合はフォワードは後ろに向かってカバーに走り始め、ディフェンスする側のフォワードは前に向かって走ることがもう、常識となってしまいます。
これは相手のバックスが常道通りにボールを回した時に一番適した走るコースです。しかしキックをしてきたり、アタックするサイドを変更したり、パスミスをしたり、想定外の変化への対応を予測していない選手、もっと適切な言い方をすれば、予測しようとしていない選手が多いように感じられます。
最初にいつも走っている常識的なコースを大きなはっきりとした変化が起こるまで走り続ける。大きな変化が起きそうな予兆は沢山あったのにその変化に対応しようとしません。
ラグビーは変化が常態です。ラグビーは敵であれ味方であれ、ボールを持っている選手への対応が最優先され、その次に最優先されるのはその一番近くにいる選手への対応です。
この二人の動きを見れば、自分が次にすべき最善の行動は予測できるはずです。しかし、大半の選手は練習で走っていた常識的なコースを走り続けます。当然変化に対する最善の対応とはなりません。
私の場合は、この二人の選手の動きを見て、直感的に判断して、自分がすべきプレーを変更して、この常識的なプレイと正反対のようなプレイを沢山していました。そうすると、私の動きを見える位置にいた選手は、私の動きに対応して、最も適切な動きに当然変えていきます。
例えば、バックスのディフェンスは横一線に揃えて全力で飛び出すと決めていて、私が外側のセンターのポジションで前のポジションの選手二人(スタンドオフとインサイドセンター)が綺麗に揃って早く飛び出したら、私は後ろに向かって走る場合が多くありました。私を見た私の外側の選手は当然内側に向けて走って、私がいなくなったので、そのカバーに入ります。少しぐらいの変化であれば、いつもと同じコースを走るのでしょうが、私が真逆の後ろに向かって走り出すと、これは当然自分の走るコースを変えます。
もちろん私の予想通り行かず、失敗もありました。でも岡先生はそのような時でも、私を怒ることはありませんでした。主体的思考の重要さを誰よりも大切にしていたからでしょう。
今の日本を見ると、変化が起きているにもかかわらず、相変わらず、常識的な行動を変えようとはしないように見えます。少子高齢化は相当前から言われてきたことです。今働いている人たちが退職した年金生活者の年金を支える仕組みがあり、働く人数が減り、年金を受け取る人の数が増えれば、年金制度が破綻するのは、ピーター・F・ドラッカーが言う「既に起こった未来」でした。
この10年ほど、既に起こった未来に対して何の対策も取らず、金を擦り続け、異常な円安で物価は上昇し、経済は停滞し、発展途上国以下の賃金では、海外からの労働者も集められず、逆に日本から若者が出稼ぎに出るようになり、さらにひどい状況になりかねません。
岡先生が言われた「自分で考え、判断し、行動して、責任を持つ」主体的な思考で個人が行動を起こすことが重要です。
変化が起きているにもかかわらず、悲惨なことが起こってしまうまで何もしないのが今の日本の姿だと感じています。
日本の常識は世界の非常識のようです。
0 件のコメント:
コメントを投稿