2022-10-11

星名先生について調べてみました。

  星名先生とは私は4回しか直接話をしたことがありませんが、私の人生に大きな影響を与えています。

 岡先生とは卒業後も約20年ほどは毎年合宿に参加し、岡先生が上京した折には私の家に泊まられたこともあり、数えきれないぐらい話をしましたが、その岡先生も星名先生の影響を受けておられます。
 でもお二人とはラグビーの話しかした事はありません。

 星名先生のことをもっと知りたくて色々調べていたら、京都大学ラグビー部が今年100周年でいろいろな記念行事をおこなっており、星名先生の時代のことなど、色々参考になりました。

 特に、星名先生が京大の監督に就任される前の1年間、毎日のようにグランドの横から練習を見て、選手の特性を頭に入れてから、監督就任すると真っ先に、大胆な選手のポジションチェンジを行い、それまでのラグビーの常識とは全く真逆の理論(京大ではスイングパスと呼称)を持ち込まれたようです。

 更に凄いのは、それほどして導入したプレーを選手が実践するかどうかは選手の主体的思考に任せたことでした。
 これは同志社で導入した時も同じで、私が2年生の時に同志社で初めて実践(この時には私は極端に浅いアタックラインと呼んでいました)したのですが全試合にこのプレーをしたのは2年生の時だけでした。

 このプレーだけに頼るのは当時のグランド事情が適当ではありませんでした。当時の大学選手権は全て東京の秩父宮ラグビー場で行われていたのですが、当時の秩父宮ラグビー場は芝のコンディションが良くなく、関東ローム層と呼ばれた灰のような土の上に芝生が生えていたので、冬で正月を越えると、夜の寒さで霜で土が凍りつき、試合が始まる頃にはその湿った土が溶けて、ヌルヌルと上滑りするようになり、慣れていない私は横に走るときに鋭角的にステップを踏むのですが、スパイクが上滑りして、何度も転んでしまいました。
 
 3年生になると、ほんの少し後ろからスタートする時やわざと遅れてスタートする時も加えるようにして、アタックのバリエーションを増やしました。また、スクラムを10人で組んだりしたので、極端に浅いアタックラインを活用する機会がだいぶ減りました。バリエーションは色々考えましたが、基本は全て星名先生の理論で主体的思考のものでした。

 星名先生のことを調べているうちに、文春オンラインに行きつきました。
 文春オンラインでは終戦直後の満州でソ連軍がやってきて民間人を1000人単位で虐殺する中、邦人の引き上げを支えた「一人のラガーマン」として星名先生のことが書かれています。星名先生の人間的な凄さがよくわかります。
 週刊文春オンラインはコチラからご覧になれます。


 また、Google の検索で星名秦で探すと、色々出てきて、Wikiwand では星名先生の父上の星名謙一郎さんの生涯まで知ることになりました。すごい家系です。
 コチラからご覧になれます。
星名先生、家族

 なんとか星名先生の理論を後世に伝えて行きたいと思っています。

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