星名理論と岡理論 21 ラグビーは自由と変化が基本 5
ラグビーは選手相互が影響し合い、依存し合いながら一つのチームとして生き物の様に変化して行く物です。大学ラグビーは1年毎チームを作る事になりますが、そのチームの体質の様なプレイスタイル(DNAの様な物)は1年で出来る物ではありません。
インサイドセンター(1CTB)が突破する場合、走るコース、パスを受けるタイミング等一つの形を持っていると、アウトサイドセンター(2CTB)はインサイドセンターが突破しに入った場合、事前にそれを予測する事が可能です。
例えば、私の場合、下の図の様に、ディフェンスの対面の正面か内側に立った場合、ほとんどの場合、外へ抜きます。また逆に対面の外側に立った場合は内側に突破しに入ります。もちろんとっさの判断でその逆の場合も時にはありますが。
アウトサイドセンターは私の立ち位置で次のプレーを予測することができます。
そうするとアウトサイドセンターはインサイドセンターが突破する事を予測し、早く顔を出す様にディフェンスラインの裏側に走り込みます。
良いタイミングで顔を出すとインサイドセンターはカバーディフェンスにタックルされる前に外へパスをつなぐ事が出来、パスはうまくつながり、チャンスは大きく広がります。
ところが突破する形を持っていなくて突破すると、アウトサイドセンターが顔を出すのが遅れ、抜いた選手はパスをする相手がいないので、パスをする事が出来ずにタックルされるまで走る事になります。
アウトサイドセンターは顔を出す事が出来て、パスを受ける事が出来てから、その次のプレーに移る訳ですが、そこでパスを受けない限り、次のプレーを経験する事は無い訳です。 そのようなゲームを繰り返しシーズンが深くなって来たら、いつまでたってもその次のプレーの精度を上げる事が出来ません。
同じ事はインサイドセンターについても言える事です。自分が突破したとき、アウトサイドセンターが顔を出すのが遅れたらパスをする事が出来ず、自分でそのまま走り続け、タックルされてしまい、何処で、どのようなパスをしたら良いのかタイミングがつかめず、分からないままになってしまいます。
この様に、この二人の選手は相互に依存し、影響し合っているので、両方が同時に機能した時に初めて更に外側の選手や他の選手につなぐプレーを体験し、その精度を増して成長して行く物です。
星名理論と岡理論 22 ラグビーは自由と変化が基本 6
プレーの予測が重要、そのためにはイメージトレーニング
ラグビーの局面は常に非常に流動的で、ボールを持って一秒後には全く想像とは違った局面にぶつかります。自分以外の他の29人の動きを全て想定する事は不可能です。
しかし、自分の周囲数人の動きは想定しておく必要はあります。自分にパスをする選手、自分がボールを持ったらパスをする選手、それぞれのマークの敵の選手、敵のカバーディフェンスの選手(フルバック、フランカー等スクラムの第3列)、の動きです。
大学選手権に出て来る位のチームになると、FW、バックスともにほぼ一定のレベルのプレーは全て出来ると考えられます。と言う事はある程度の選手の動きの予測は可能だと言う事です。
例えば、アタックでインサイドセンターをしている時、自分の対面の動きは最初の立ち位置を確認した段階で、後は相手を見なくても、相手の走って来るコース等の予想はつきます。
なぜなら相手は私にタックルをしに来る訳で、私の動きに相手が合わせるので、私の動きとはあまり無関係な動きはしないからです。
相手ディフェンスの対面の選手が私の立っている位置の正面に立ち、私がスタートした後真直ぐ前に走ったら、相手も私に向かってまっすぐ走ってくるので、走った時間、距離等でタックルポイントは予測できます。その予測した時間までは、相手を見る必要は無く、その他の選手の動きを見て最適のオプションを探します。
インサイドセンターで突破した場合、当然相手のカバーディフェンス(フランカーなど)が直ぐタックルに来るのは当然で、そのコースは事前に頭に入れておかなければなりません。そしてそのカバーディフェンスのタックルのコースに走り込む前に次にパスが出来るかどうか事前にイメージしておく必要があります。
そしてパスが出来る可能性が少ない場合には自分で突破するのを止めて、パスをする、キックをする等次のオプションを選びます。
ここまで事前にイメージを作り上げ、実際のゲームに臨みます。
下の図が星名理論の概念図2の続きです。自分のマークを抜いた後で、敵の赤い線がイメージしていたディフェンスの選手の動きです。
星名理論と岡理論 23 岡先生の選手起用方針
最強の選手15人で戦う
岡先生の選手起用方針にも個性や自分の直感を元に、独自の考え方をお持ちのようでした。
まず、選手の高校の時のポジションや体格は全く関係ない。現在の選手の中で、最強のメンバーを最適のポジションで15人試合に出させたいとの考えをお持ちのようでした。当時のルールではけが人が出ても選手交代はできなかったので、これも当然だと思いました。
例えば、フォワード(FW)とバックスを見比べれると、当時の同志社はFWに優秀な選手が多いようでした。FWに10人の優秀な選手がいるのに、試合ではFWに8人しか出せないのであれば、残りの二人をバックスの選手として、試合に出させる。
それもその選手の卒業後のことも視野に入れて、バックスの経験をさせたいとのことでした。
私が2年生で初めて星名先生の指導を受けた時、同期でフォワードの第3列の石塚を私の横のセンターにしました。彼は同志社が全国制覇した時のナンバ−8の石塚(日本代表の主将)さんの弟で、私と一緒に1年生の時から試合に出ていて、前年度の4年生が4人も卒業したフォワードの中心選手でした。
私は岡先生のその理由を聞きました。
「チーム全体を見ると、FWに良い選手が多い。石塚は足も速いし、ラグビーセンスも良い。何よりフォワードの選手なので、ラックなどの球の処理が抜群だし、彼がバックスにいるとフォワードの選手が一人多いので、ラックなども有利に戦える。彼は将来FWに戻ることになるが、バックスでお前とコンビを組んだ経験は彼のプレーを格段に進歩させられる」とのことで、納得しました。
石塚は結局、同志社では最後まで私とコンビを組んでセンターでしたが、新日鉄釜石に入ると、今度はナンバー8に戻って活躍していました。
岡先生の記事 「フランスの金髪のラグビー選手」の話はこちらから
星名理論と岡理論 24 星名理論を明治戦で実証
明治戦で6トライ
星名先生の「タックルポイントはアタックする側が決める」と言う、従来の理論と正反対の地動説的な考え方は岡先生の「バックスの役割はFW(フォワード)を前に走らせる事」と非常に相性が良かった。私は岡先生の理論も正しいと思っていたので、試合でも「FWをどう前に走らせるか」ばかり考えていました。
私は 星名先生の教え通り、極端に浅い(相手に近い)ポジションに立っていたので、ゲインラインを突破すると、相手のFWのバックアップは届かないので、トライに結びつく事が多かった。でも、私自身は自分がトライをする事など、あまり考えたことはありませんでした。フォローしている選手にどのようにしてトライをさせるかばかり考えていました。
大学4年の明治大学との定期戦で試合の3日前の練習で左手指4本を痛め、手が倍ほどに腫れ上がり、使えなくなりました。指4本が全く動かないので、下の写真のように左手をテーピングで固定したのでパスができず、タックルも普通にはできないので初めてヘッドキャップをかぶりました。
星名理論を実践したのは同志社と京大だけ
星名先生の理論を実践したのは、残念ですが同志社でも私の時代だけです。他には星名先生が京都大学の出身で、京大も指導していたので同時期に京大も実践していました。
当時の京大は非常に強くて大学選手権にも出場していました。特にバックスは小粒でしたが足が速く、良い選手が揃っていました。京都の高校出身者が多く、その頃の花園経験者も結構いました。私が高校1年生の時は、洛北高校、2年生の時は同志社高校、3年生の時は鴨沂(おうき)高校が花園の全国大会に出場し、その洛北(西村、渡辺)、鴨沂(石塚)から同志社大学へ、洛北(和田)、鴨沂(中村、宮崎)から京都大学に進んだ選手がいたので、選手同士も顔見知りでした。
特に4年生の時の京大との試合は私には忘れられないものでした。前半は京大の早い試合運びに振り回され、リードされてゴール前まで攻め込まれていた時にそのプレーは起きました。
ゴールポスト前のラックで京大はセンターの宮崎が反対側の私のサイドに走りこんで来たので、相手が3人こちらが2人でこちらが一人少ない場面になるところでした。
私が宮崎に向かってタックルに行けば、宮崎はパスをして残りは2対1となり、簡単にトライされます。また私が宮崎にタックルに行かず、私の対面の選手にタックルに行くと、宮崎はパスをせずに私の背中を抜いて、走ってトライをします。これは宮崎の得意のプレーの一つで、彼が判断ミスやパスのタイミングを外すことはないと思いました。
私は宮崎の方向に向かって少し走り、すぐ私の対面の選手の方向へ向きを変えて、またすぐ方向を私がスタートした場所へ戻る、丸く円を描くような走りをしました。その間宮崎の顔も方向も一度も見ていません。タックルのために姿勢を低くする間もなく、宮崎と正面衝突するような形でぶつかり、抱きかかえるような形でタックルをしました。
その瞬間宮崎が「ナイスタックル」と口走りました。
数十年経ち、宮崎(故人)と最後に会った時に、この時の話になり、「お前のタックルがなかったら京大は同志社に勝っていた」「俺もそう思う、あの時の京大の勢いはすごかったので、もしあそこでトライを取られていたら、後半巻き返すこともできなかったと思う」
「一度ゆっくりこの話をしたい」と言ったのが、宮崎の最後の言葉で、数年後、彼は永眠しました。
「お前のタックルがなかったら京大は同志社に勝っていた」。その年は同志社大学が関西大学リーグで10年連続優勝した時でしたので、「たら」「れば」の仮定の話は負け惜しみになるので、したくないと、胸にしまっていたのが、思わず口に出てしまったのだと思うと、私自身も、その時は「負けるかもしれない」と感じていたので、もっと早く、宮崎とこの話をしておけばと思いました。
0 件のコメント:
コメントを投稿