2007年5月11日、私のラグビーの恩師、岡仁詩先生が永眠されました。
しばらくしてから先輩から2005年11月9日に岡先生が行われた講演で星名秦先生と私のことを話されていることを知らされました。星名先生は京都大学のラグビーの名選手で、同志社大学の学長で岡先生にラグビーを教えた人で、私が同志社大学2年生(1965年)の時に、私にも直接指導してくださいました。
その講演録を読んで、これは岡先生からの「星名先生と岡先生のラグビー理論を後世に伝えるように」とのメッセージではないかと思い、何度か同志社大学ラグビー部のOB会に星名先生の理論について寄稿しました。
星名先生の理論は非常に革命的なもので同志社と京大しか実践していなくて、同志社でも私しか実践できる選手がいなくて、その後半世紀以上経ちましたが、私の知る限り、まだ実践しているチームや選手は現れていません。
卒業後、ラグビーの強豪チームに入らず、マーケティングの仕事をしたかった私の後押しをしてくれたのは星名先生でした。岡先生からは毎夏、ラグビーの合宿にはコーチとしてくるように言われ、IT業界に転職するまで、約20年間、同志社大学の夏合宿に参加しました。その間、一度だけ同志社大学の合宿に行かず、東京外国語大学のラグビー部の合宿に参加したことがあります。
東京外国語大学のラグビーの選手はほとんど大学に入ってからラグビーを始めた人ばかりですが、星名先生、岡先生の理論を主体的に実践することで、素晴らしい変貌を遂げました。私の方が両先生のラグビー理論の凄さを再認識させてもらいました。
2020年9月になり、コロナ禍でいつ死ぬかわからないと思い、元気なうちに星名理論と岡理論を誰でも読めるようにブログに残しておこうと思い立ち、OB会への寄稿を基に、ブログ「60歳からスペインで始めたラグビーが楽しめる体作り」を開設しました。
ラグビー関係者はあまりブログを見ないので、犬や海外生活やリタイアメントライフ、アンチエイジングなどのテーマで1年8ヶ月程の間に、2022年9月現在、約460件の記事を書き、20万件以上のページビューをいただいています。
つい最近、心臓病で入院しカテーテル手術を受け、命を救われたようです。星名先生と岡先生の理論については前回5月11日の記事で100回書いたことになります。
全て読み直してみると、表現の不味さやこのような言葉で書くべきではと思うところがたくさんありました。もう一度最初から50回ぐらいにまとめて書き直してみようと思っています。
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星名先生と岡先生です。
星名先生について
最近のラグビーのファンの方では聞いたことがない、もしかしたら60歳以上の人でラグビー経験者だと知っているかもしれない、二人のラグビーの名選手のラグビーに対する考え方です。
同志社大学のラグビーが最盛期の頃、林、大八木、平尾などで大学選手権3連覇をした頃の同志社のラグビーの基礎となる考え方を構築したお二人が星名秦先生、岡仁詩先生です。
まず星名先生について書いてみます。
星名先生の略歴(ウィキペでイアより抜粋、加筆)です。
米国テキサス州ヒューストンで生まれ、現在の京都、洛北高校、京都大学工学部出身で、ラグビー部に所属していた。1928年に京都大学ラグビー部が東西学生ラグビーフットボール対抗王座決定戦で早稲田大学を破って、全国制覇したときのキャプテン。ポジションはCTBで、たくみなサイドステップやカット・スルーで活躍した。
5種競技でもアジア大会で優勝した。
1928年大学卒業後は南満州鉄道に技術者として勤務、1947年に満州から帰国、その後は同志社大学工学部の教授となり、同大学ラグビー部を指導した。当時の教え子に元日本代表監督岡仁詩などがいる。1960年に京都大学ラグビー部の監督に就任。京都大学ラグビー部元監督の市口順亮など、多くの名選手を育てた。
星名のラグビー理論は、「星名ラグビー」と呼ばれ、オーストラリアやニュージーランドなどの最先端のラグビー理論の原著を自ら翻訳し、積極的に取り入れて日本のラグビーを一気に近代化させた。その理論は教え子である岡や市口だけでなく、早稲田大学の名将、大西鉄之祐など、ラグビーの黄金期を支える世代に大きな影響を与え、日本の近代ラグビーの発展に貢献した。
星名理論の凄さを知るためには1960年代の時代背景を知る必要があると思います。私が星名先生と出会い、星名理論を教えて頂いたのが1965年大学2年生の春の時でした。
この頃はテレビもまだ白黒が主流でビデオなどもあまり普及していなくて、海外の情報もほとんどない時代でした。円の為替レートも固定で1ドル360円の時代で、大馬鹿者の私はニュージーランドがどこにあるかも知りませんでした。
当時、ラグビー界で話題になっていたのはニュージーランドの戦法でアップ・アンド・アンダーと呼ばれるもので、スタンドオフで高いキックをフォワードの前に上げ、それを走り込んで勢いをつけて倒し、ボールを確保すると言うものでした。パスは後ろにしなければならないラグビーのルールの中では、バックスにパスをするのはハーフからスタンドオフへの一回だけで、フォワードが後ろに走る場面を極端に少なくする確実な戦略でした。そして、バックスは深い(相手から遠い)アタックラインで足の速いウイングまで回して勝負すると言うものでした。
このような時代背景の中で、星名先生は外国のラグビーの文献を読みあさり、それまでの常識とは真逆の、天動説の時代に地動説を説くような、極端に浅い(相手に近い)アタックラインを考え出されました。しかし、あまりに革新すぎるので、実践できたのは京大と同志社では私だけでした。私の知る限り、半世紀以上経った今も、実践しているチームや選手も見当たりません。
岡先生について
岡先生の略歴(ウィキペでイアより抜粋、加筆)です。
岡 仁詩(おか ひとし、1929年11月10日 - 2007年5月11日)は、元ラグビー日本代表監督。同志社大学ラグビー部元監督、同大名誉教授。1959年に同大ラグビー部監督に就任。1962年に日本選手権の前身、第2回NHK杯で優勝。1964年の第1回日本選手権も制した。
1973年にラグビー部で部員事故死があり監督を辞任。3年後に復帰した。その後、大学選手権は、林敏之が在籍した1980年に、大学選手権初優勝、その後大八木淳史・平尾誠二らが1982年〜1984年度に史上初の3連覇を果たした。このほか、日本代表監督も1972年をはじめ数度を歴任。日本ラグビーフットボール協会強化委員長も務めた。
岡先生が同志社大学の選手の頃、その時は星名先生が同志社大学の教授でラグビーを指導されていました。その頃から星名教授のことを「星名先生」と呼んでおられたようです。私が同志社大学に入って星名先生にお会いした時にはもう同志社大学の学長になられておられ、岡先生は教授でした。
岡先生が星名学長のことを「星名先生」と呼んでいるのに、私たちが岡先生のことを「岡教授」と呼ぶのはおかしいので、その頃の選手は全員、星名学長のことを星名先生と呼び、岡教授のことを岡先生と呼んでいました。
今でもその時の癖が残っていて、星名先生、岡先生と書いています。
社会人の強豪チームでラグビーをしなかった私がマーケティングの仕事につく後押しをしてくれたのは星名先生です。そしてその私に岡先生は「夏合宿だけは必ずコーチに来るように」と言われました。そして私はIT業界に転職するまで約20年間、8月の後半に2週間休みをとり、ラグビー部の合宿に臨時コーチとして参加しました。
その間1年だけ、夏合宿に参加しない時がありました。部員の死亡事故で岡先生が監督を辞任された時です。その時の夏休みに東京外国語大学の夏合宿に参加して、星名先生と岡先生のラグビー理論の凄さを体験することになりました。
星名先生と岡先生のラグビー理論の凄さは選手としては教えられ、実践してきて理解はしていたものの、無口で表現能力のない私はそれを論理的に説明したり、教える能力に欠けていました。
岡先生が永眠され、岡先生の理論をOB会に寄稿する段階で、初めて教えていただいたことが体系的に、論理的に理解できるようになり、またブログを書いているうちに、両先生の理論の凄さを再認識するようになりました。
岡先生の講演録 「教わり教え教えられ」
- 岡仁詩先生が2005年11月9日に行った講演の講演録「教わり教え教えられー同志社ラグビーとともに」の中で下の3枚の写真のように述べられています。
タイトルからも推察できるように、ラグビーのコーチングについて書かれています。
「自主性」「自分で考え、判断して、行動して、責任を持つ」「個性」が使われていますが、私はこれらを統合して「主体的」という表現にしたいと考えました。
文中には書かれていませんでしたが、岡先生が伝えたかったことはタイトルに書かれているように、「ラグビーを星名先生から教わり、同志社の学生たちにそれを教え、最後はその学生たちにラグビーの素晴らしを教えられた」という意味だと私には解釈できます。
ラグビーの「基本とか本質」とはどのようなものか、それを常識とか慣例とかにとらわれず、「自分で考え、判断して、行動し、責任を持つ」言い換えれば主体的思考で行動する事の重要性を伝えたかったのではと感じられました。
日本人は、特にラグビーのような団体競技になるとチームワーク、チームプレーといったような、与えられた枠組みの中で、全て判断して行動することが多いようです。
与えられた枠組みそのものが、時代遅れであったり、もう戦況にそぐわなくなっていたとしても、ただひたすらに枠組みの中から出ようとしない。
ラグビーは自由なスポーツで変化が常態
ラグビーは制約の少ない自由なスポーツです。ラグビーではボールを持っている選手に対してはルールで禁止されている危険なプレーでない限り前後、左右、どんな位置からでも、激しくタックルすることが可能です。
ボールを持っている選手はタッチラインの中であればボールを前にパスする以外はどんな動きをしてもかまいません。タックルを避けるために、パスをしても、キックをしても、後ろに向かって走っても、歩いても、飛び上がっても寝転がってもかまいません。
この様に30人の選手が入り乱れるラグビーは数秒後には戦況は大きく変化します。ラグビーは変化が常態です。例えば、攻撃している時、パスをインターセプトされると、突然、守る側に追いやられます。チャンスと思っていたら突然ピンチになります。
その変化に柔軟に即座に対応することが必要です。そして制限が少ないので、プレーのオプションは無数にあります。
このような事態では、事前の決め事では対応できません。それぞれの選手が主体的に判断して最適のプレーを見つけなくてはなりません。その場合、決められた枠組みの中での思考によるプレーは役に立たない場合が多くあります。
それぞれが主体的な思考で判断し、それを実践する必要があります。
コーチングには言葉の統一が重要、「主体的」を選んだ理由
無口で、字が汚く、人前で話すことが苦手な私は、ラグビーとマーケティング以外の語彙がほとんど頭に浮かびませんでした。結構早い時期にパソコンを使う様になり、また同志社の夏合宿で岡先生に適切な言葉の選択と統一が重要であることを教えてもらいました。
同志社大学が林、大八木、平尾などがいて強かった時、夏合宿にフォワード のコーチとしてニュージーランドのカンタベリー大学のホックリーさんを呼んで、初めてモールの技術を導入しました。ホックリーさんはカンタベリー大学が日本に遠征した時のキャプテンで、全同志社で対戦し、また私が大学2年生の終わりの春休みに全同志社でニュージーランドに遠征した時に、いろいろ世話をしてくれた人でした。
そのホックリーさんが初めて同志社に(おそらく日本でも初めて)モールの技術を教えてくれました。
岡先生はフォワードの古いOBに練習中に声を上げて指導することを禁止したことがあります。多くのOBがモールに「突っ込め」と言う表現で、選手に言っていたからです。
当時はラックとモールの区別もできない時で、ほどんどのOBはモールのように立って組んで押すと言う意識がありませんでした。
昔のルーズ(ラック)のように、寝転がるプレーが多い時に、「突っ込め」と言う様な言葉は「diving、飛び込め」と言う様なイメージになるからです。
ホックリーさんが教えている「get in the moul,and walk」と言う、重要な「モールに入り、足を動かし、前に進むこと」の意識を全員に徹底させたかったとのことです。
元々知っている語彙が少なかった私は、何かをする時、もっと的確な表現をしないとまずいのか、と感じて、それ以後、使う言葉を選ぶ様になりました。
パソコンは私にとっては強力な武器になりました。字が汚いのは気にすることはなく、また文字の変更や構成を変えることも簡単で、使う単語も色々候補が出てきます。
例えば、星名先生の「自分で考え、判断して、行動し、責任を持つ」と言う考え方を、どう言う言葉で表現するかを考えた時、「自発的、自主的、主体的」などの単語が浮かんできて、それぞれの意味を調べました。
「自主的」は行動の取り方に重点が置かれ、人の助けもなく、独立して自分自身で行うこと。
「自発的」は行動のきっかけに重点が置かれ、自分の中から動機が生まれて、行動を起こすに至ること。
「主体的」は、自分の意志で行動を開始するという意味(自発的)と、自分で独立して行動するという意味(自主的)の両方の意味があるとのこと。
また、主体性と自主性の違いについても調べてみました。
「主体性」は自分の考えや判断をもとにして実行するもので、自分の行動に対する責任が強調されている。
「自主性」は他人から指示を受ける前に、自分で取るべき行動を率先して行う態度で、自分の行動に対する責任や行動選択の自由が含まれていない。
岡先生の言葉で私が一番好きな言葉は「自分で考え、判断して、行動し、責任を持つ」ですが、この言葉を端的に表現するには「主体的」という表現が一番ふさわしいと感じました。
主体的思考で変貌した東京外国語大学
制約が少なく自由で、変化が常態のラグビーには主体的思考が不可欠です。
社会人の強豪チームでラグビーをしなかった私は、東京に出て丸紅でラグビーをやらしてもらいました。当時、丸紅には同志社高校からの同級生、伊藤武(同志社大学が初めて大学選手権で優勝した時の監督)がチームメイトとしてラグビーをしており、他にも京大の選手が多く、星名先生の「極端に浅いアタックライン」のラグビーを実践できたからです。
岡先生から「同志社の合宿には必ず来い」と言われ、20年間ほど毎年8月の後半に夏休みをとり合宿に参加していました。一度だけ合宿に参加しなかった年があります。部員の死亡事故で岡先生が監督を辞任された時です。この時、私は丸紅でラグビーをしていた、東京外国語大学のラグビー部の監督の千葉さんから頼まれ、東京外語大の夏合宿に参加しました。
東京外国語大のラグビーの選手はほとんどが大学に入ってからラグビーを始めた人ばかりです。合宿での練習試合の初戦では私には同じ程度のレベルだと思うチームに大敗しました。合宿の最終日、東工大と試合が予定されており、その東工大は自分達が負けたチームに大勝しています。
東工大との試合の前日、「負けるとわかっている試合はしたくない」との声も聞かれました。 私は「ラグビーは前に向かって走っている選手が多いほうが勝 つ、 ボールは全て前に蹴れ、FWもバックスも全員全力で前に 向かって走れ 、ボールを持っている相手に一番近い選手が とりあえず捕まえろ、後は皆で押し倒せ」と少し強い口調で怒りました。
東工大との試合前には前日とは雰囲気が全く違い、「今日は勝ちます。前に向かって走ります」と言ってもう涙ぐんでいる選手もいました。私は勝つという気になってくれただけで満足していたのですが、試合になると、本当に全員が前に向かって走り、大勝してしまいました。
岡先生は「ラグビーはFWが勝てないと勝負にならない。そのためにはFWを前に走らせなければならない。FWの前に走っている選手の数が多い方が強い」と言う考え方が基本にあり、私もその通りだと感じていました。私はこの岡先生の考えをそのまま伝えただけなのですが、東京外大の選手は全員が本当に前に走り、実践してくれました。
東京外大が自分達よりはるかに実力のある東工大に大勝したのは3個の要因が考えられます。
まず、第一は全員が主体的思考になり、全員が前に向かって走ったことです。通常ラグビーの練習ではポジション毎に走るコースなどを教えられ、そのコースを毎日走ることになります。通常、これが一番適切な走るコースなのですが、ラグビーは変化が常態ですので、最適なコースが異なる場合が沢山あります。
しかし大抵の人は、もう環境が変化しているにも関わらず、自分が教えられたコースを走ります。ところが東京外大の選手は前に向かって走ると決めて全員が前に向かって走ると言う主体的な意志を持って走り出しました。
次に起きたことが正の連鎖(スパイラル、好循環)です。
フォワードが獲得したボールはスタンドオフで味方のフォワードの前にキックする。それをバックス全員が前に向かって走ることにより、誰か一人がフォワードの位置を超えた段階でフォワードの選手全員がオンサイドとなり、プレーに参加できることになり、前に向かって走り出します。
誰かが相手のボールを持った選手を捕まえて、もう一人そこに参加すると、これはラックとなりもう相手のフォワードは全員がオフサイドとなり、そのラックの選手たちの後ろの位置まで戻ってからラックに入ることになります。
東京外大の選手は全員がオンサイドの位置にいるのでそのまま勢いをつけてラックに走り込みます。当然数が多いのでボールを獲得します。
そしてそのボールをキックして同じことを繰り返します。
そしてその次に起きたことが相乗効果(シナジー)です。
全員が前に向かって走ることにより、個人の体力の消耗も少なく、勢いもついて、スピードもアップされます。このような効果が15人の選手全員に起きているわけです。
逆に相手の東工大は全て真逆のことが起きているわけです。全員が後ろに向かって走り、相手より長い距離を走り、体力を消耗し、負の連鎖(悪循環)が起きており、マイナスの相乗効果が15人全員に起きているわけです。
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