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2022-11-06

インターセプトした直後に「浦野が歩いた」

  岡先生は冷静に論理的に戦略を考えておられましたが、その反面、独創的な発想のプレーに興味を持たれているようでした。

 2年生の終わりの春休みにニュージーランドに遠征した時の試合で、インターセプトした直後に歩いて、フォローが来るのを待った時も、びっくりしたみたいです。

 相手陣の10メートルライン付近の相手ボールのラインアウトで、インサイドセンターだった私は受けた瞬間にタックルに入るつもりで全力で飛び出しました。

 相手のセンターがノックオンしたボールが私の胸に飛び込んできて、ボールを持ったまま、すれ違いで相手バックラインの裏側に出てしまいました。前を見るとフルバックの選手が一人だけでした。フォローの選手がまだきていないのではと思い、少し歩いてからフルバックに向かい、再び全力で走って真横にパスをして、フランカーがトライをしました。

 後で岡先生の横で見ていた人から聞いたのですが、「浦野が歩いた。浦野が歩いた」と2度も言って、びっくりしていたとのことです。岡先生には後から「なんで歩いた?お前の足ならそのまま走ってトライができただろう?」

 「瞬間、二つのオプションが浮かびました。一つは自分で走ってフルバックをかわしてトライする。この場合は右端のトライになる。もう一つはフォローに来るであろう味方のフランカーにパスをしてトライさせれば中央にトライできる。フランカーにトライをさせようと決めた時、二つのオプションが浮かびました。全力でそのまま走り、フルバックの直前に立ち止まって、フォローの選手にパスをする。歩いてフォローを確認した上で、その後、トップスピードで走り、フルバックの直前でフォローに来た選手に真横にパスをする。

 フルバックの直前で止まってパスをすると、全力で走ってきた選手には緩いパスでも非常に強いパスに感じるので、歩いてフォローのフランカーの位置を確認し、少し時間を稼ぎ、トップスピードで走ってからフルバックの手前でパスをしました」

 「ボールを受けた次の瞬間にそこまで考えたのか」と驚かれた様子でしたが、これは私がイメージトレーニングを毎日していたからです。

 下の図は星名理論の極端に浅いアタックラインで突破する寸前の図ですが、相手のバックス全員、フォワードのフランカーとナンバーエイトの動きを図のように頭の中でイメージして、例えば、この赤のような地点で突破した時、相手のフルバックがもっと深い位置の場合はどのようなコースを走る、図のような位置の場合はどのようなコースを走るなど、いろいろなケースを考え、シミュレーションをしていました。

星名アニメ20 このようなケースの一つで外側のセンターがもっと深い位置で遅れた場合、私が全力で走るとフルバックにタックルされる前にパスができない可能性があるので、少しスピードを殺して、外側のセンターが顔を出せる位置になったらスピードを上げて走ってからパスをすると言うオプションを持っていました。

 今回の場合、スピードを落とす程度では間に合わないと思ったので歩いてフランカーが真横でパスを受ける場所に来るまでの時間を稼いだものです。

 このイメージトレーニングによるシミュレーションは高校時代から毎日していました。高校入学当時、初めてラグビーボールに触り、15人しかいない部員で、ただ一人、ポジションさえ決めてもらえない補欠の選手が、3年後に大学に入学して、前年日本一になったチームで1年生から試合に出してもらえるようになったのは、このイメージトレーニングにあります。

 毎日イメージトレーニングを繰り返し、次の日の練習でそれを試して、さらに修正してイメージトレーニングをして、また次の日に練習で試すことを繰り返していたからです。

 そして星名先生の極端に浅いアタックラインでこのオプションの種類が格段に増えたようです。

岡先生が選んだ同志社OBベストメンバー

  40年ほど前のラグビー専門雑誌の記事です。友人からもらいました。岡先生が選んだ同志社OBベストメンバーに何故か私が選ばれていました。非常に名誉なことです。岡監督が選んだ同志社大学best15

 私が本格的にラグビーをしたのは高校と大学だけですので、同志社大学在学時のプレーを基準に選考されたのだと思います。

 同志社のセンターで日本代表になったセンターはたくさんいます。日本代表候補にもなったことのない私をあえて選んだのは岡先生がプレーの独創性を好んでおられたからだと思います。

 私は右センター(13番)が本職で、平尾は左センター(12番)を大学の時にはしていましたが、何故か逆になっています。多分、私をインサイドセンターとして平尾をアウトサイドセンターと考えて選んだものと思われます。

 前回、 林敏之氏(ダイマル)と日本ラグビー協会会長、土田雅人氏との対談の中で平尾の話として「これで完璧な試合運びだと思っていたら岡先生に、おもろない、こうするだろうと思うとその通りにする。相手に予測できないプレーをしろよ」と言われた、とのエピソードがありました。

 お二人の対談はコチラから

 岡先生が私のプレーに注目したのは1年生の時の夏の合宿からでした。春のシーズンの最後の試合でAチームに入れてもらったのですが、夏の合宿はBチームからのスタートでした。ABの練習試合でBのセンターだった私は何度もフォワードの真ん中を突破しました。

 試合の笛を吹いていた岡先生が「よく抜くな」と声をかけてくれました。試合が終わった後、岡先生が私のところにやってきて、「フォワードの真ん中をよく抜けるな。うちのフォワードは日本一のフォワードやぞ、なんでや?」。

 その通りで3月に同志社は八幡製鉄、近鉄と言う社会人の1位、2位のチームを破り日本選手権で優勝をして、卒業生は出しましたが、それでもトップレベルであることは間違いありません。

 「スクラムとかラックからフォワードは全員フォローやディフェンスに向かって走るので、今までいた位置だけが空っぽになるからです」「なるほどな、言われてみると納得するけど、こんな話聞いたことがないぞ」「私も最初は気づかず、空いている場所を目掛けて走り込んだら、今までフォワードがたくさんいた場所だったので、気づきました」

 これ以後、岡先生は私のプレーを注視されているようでした。その後すぐにAチームに戻され、4年間ほとんどの試合に出ることになりました。

 前回の記事に書いた近鉄の試合で私がラックに走り込んだのを見て、びっくりされたようですが、さらに驚いたのはラックで肩を付けて押すのではなく、相手の選手の隙間を通り抜けて相手のボールを蹴り出して、それを拾ってトライするなど、誰も考えたことのないようなプレーをするのが、非常に面白く感じられたようです。

 次回から、岡先生が驚かれた私の常識はずれのプレーについて書いてみようと思います。

近鉄戦で石塚さんにタックル

  前回、「タックルの名手二人」で私の同期のメチャとダイマルが仲良く写っている写真を載せましたが、ダイマルが同志社の1年生の時、新人とOBの交流戦があった時、あの小さなメチャがあの大きなダイマルに正面からタックルして身体中が痺れてしばらく動けなかったことがあったそうです。無謀なことをする奴です。


 私も大きなフォワードにタックルしたことはありますが、ほとんど横か後ろからで正面からぶつかったことはありません。
 大学4年生の時の近鉄戦で先輩の石塚さんにタックルをしました。味方ゴール前の22メートル付近のラックから石塚さんが突然抜け出して何故かフルバックがいなくて真っ直ぐゴールポストの下にトライできると思ったのか、少しスピードを緩めた所に、真後ろから追いかけていた私が両足首にタックルしてトライを防ぎました。
近鉄 坂田さん
 この年の近鉄は日本選手権で優勝した時で、すごい選手が揃っていました。先輩の坂田さんには2トライされました。でも記事にあるように、私も2トライをして、そのうちの一つは岡先生がびっくりしたほど常識はずれのものでした。

 相手陣のゴール近くのラックで近鉄がボールを支配していました。4人ぐらいで組んでいたラックで少し隙間があり、私は細いのでその間をすり抜けられるのではと思い、肩を窄めてラックに入ったらすり抜けることができ、目の前にあったボールを拾ってそのままトライをしたものです。
 
 岡先生は常日頃、ラックの組み初めは、バックスの選手でも自分が入るとボールが取れるようであれば、必ずラックに入れと指示されていました。しかし、私にだけは、「お前の好きにしろ。お前がラックに入ってマイボールにして、お前のいないバックスにボールを回した方が良いのか、お前のいるディフェンスで相手にアタックさせた方が良いのかよく分からん。万が一、お前がラックに入ってボールを取れなかったらお前のいないバックスでディフェンスをすることになる」と、言われました。

 そのため、私はあまりラックに入ることはなかったのですが、日本一の強力フォワードの近鉄とのラックに私が走り込んだのでびっくりしたそうです。
 私一人がラックに入っても強力な近鉄フォワードのラックを崩すことはできないのに、と思っていたら、ラックに入って肩をつけて押すのではなく、隙間をすり抜けて相手ボールを拾ってトライをしたのには流石にびっくりしたようです。

 「お前は本当に信じられないプレーをする」と言って、笑っておられました。岡先生が私のことを高く評価してくれていたのは、全く想像もできないようなプレーをするからだと思います。

 林敏之氏(ダイマル)と日本ラグビー協会会長、土田雅人氏との対談の中で平尾の話として「これで完璧な試合運びだと思っていたら岡先生に、おもろない、こうするだろうと思うとその通りにする。相手に予測できないプレーをしろよ」と言われたとのエピソードがありました。
 岡先生は周囲の選手が予測できない、独創性のようなものを選手に求めておらられたようです。
 
 お二人の対談はコチラからからご覧になれます。

タックルの名手二人

 歳は少し離れていますが二人の共通点はタックルの名手です。メチャは小さいのにタックルは非常に素晴らしいものでした。私は大学生の時、ボールを持って抜きに出た時、あまりタックルされることはなかったのですが、練習ゲームでメチャにタックルされてしまいました。岡先生がびっくりしたほどです。

 この時の話はコチラから

メチャと林

 林敏之氏(ダイマル)の選手としての素晴らしさは多くの人が知っていると思いますが、日本のラクビーの将来のために、ヒーローズカップを立ち上げ、子供たちの育成に全力を注いでいます。

ヒーローズカップ大会図

 このようなプロジェクトを立ち上げ、継続していくことは大変です。私は広告業界が長く、イベントには色々参加、運営してきたので、このようなイベントを主催、運営することの大変さは、よくわかっています。数十年後には彼の精神を受け継ぎ、日本でラグビーが盛んになっていることを願っています。

 ヒーローズカップについてコチラから

 メチャもラグビーに大きく貢献しています。同志社大学のコーチやNTTドコモの監督などを歴任し、ラグビー精神を説く頑固ジジイとなっています。。

メチャ、坂田さん、藤田さん

 1983年、第二回オール同志社NZ遠征、丁度カンタベリーUnivの100周年で明治大学と帯同遠征の時の写真とのことです。メチャと一緒に写っているのは坂田さん、藤田さんです。

 お二人には日本のラグビー界のために、今後も元気で頑張ってほしいと願っています。


 

GAFAはやっぱりすごい。

 Google ,Apple,Facebook ,Amazonの凄さを改めて実感させられました。


 今回はAppleとGoogleの子会社YouTubeの話です。

 YouTubeを電子本とブログを連動させ、相乗効果を出そうと思いつき、YouTubeやAmazonを使い始めたのは今年の6月ごろからでした。電子本の出版はブログの電子本のデータを使えば、2週間ほどでほとんどできました。徹夜のような状況が続きましたが。しかし、YouTubeの動画の作成は大変でした。静止画のデータはそれなりにあるのですが、ビデオはほとんど撮っていませんでした。

 星名先生のラグビー理論をわかりやすく説明するためには動きやタイミングが必要なのでアニメが最適でした。しかし、アニメの説明のためにナレーションを入れるのが、話をするのが苦手な私にはさらに大きな問題でした。

 YouTubeと電子本を連動させるためにはまずYouTubeの動画のアドレスが必要になります。本来ならばYouTube先行させないとまずいのですがそれに気がついたのは少し後からでした。
 アニメを入れた動画はコチラからご覧になれます。

 YouTubeには横長の通常のサイズの動画とスマホの縦長のサイズのショート動画の2種類があります。ショート動画の普及はすごいものがあります。2020年10月にサービスが開始され、最近のアクティブユーザーは全世界で15億人、1日の視聴回数は300億回以上で、昨年の4倍と言う数字もあります。

 最近になってiPhoneの写真の中のアルバムに動画が自動的に作られているのに気づきました。また私の場合「写真」ホールダーの中のデータはほとんど静止画ですが、それを勝手にiPhoneの中のAIが、同じジャンルに分類し、例えば、地域、日付、人、風景、犬、その分類した写真だけで自動的にスライドショーにBGMを入れて作ってくれているものです。
 何もしなくてもYouTubeのショート動画に投稿することができます。下の動画で手を加えたのはタイトルだけです。
 地図では日本語に直す時、シッチェスをシトヘスと直すからです。

 しかも驚いたことには再生回数が数日間で900以上もあったことです。国の分析ではスペイン、日本、インド、韓国、インドネシア、ロシア、タイなど16カ国にも及んでいることです。
 
 コチラからご覧になれます。
シッチェスのビーチにて

 YouTubeもすごいです。
 YouTubeでラグビー関係の動画ばかり見ていました。そうすると下の写真の右欄のように自動的にラグビー関係の動画が次の再生リストの中に出てくるようになってきました。検索しなくても勝手に再生リストが出てくるので非常に便利です。

再生リストの順番
 写真は林敏之氏と日本ラグビー協会会長の土田雅人氏の対談の動画ですが、この動画はコチラからご覧になれます。
 私の場合日本を離れてもう18年近くなるので日本の情報に疎く、ブログに何か書く時、インターネットで事実関係を確認しています。YouTubeのラグビー関係の動画を見ることにより事実関係も確認できるので非常に助かります。



京大ラグビー 100周年誌デジタルコンテンツから

  星名先生のことをもっと知りたくて、色々探していたのですが、最も重要な情報をいただいたのは京大ラグビ−100周年の記念事業からでした。

 京大ラグビーが今年100周年の記念の年であることを知ったのは今年の7月の下旬です。それから毎日のように100周年誌デジタルコンテンツにアクセスし、約100ほどあるデジタルコンテンツのほとんどを見せていただきました。

 星名先生が京都大学を指導されていたのは1960年(昭和35年)から1972年までの12年間のようです。もっとも参考になったのは星名ラグビーの1期生とも言える和田文男さんのインタビュー動画でした。

和田さん タイトル写真

 インタビュー(2)星名監督のエピソードはコチラから 

星名先生と選手達

写真は京大ラグビー部100周年記念サイトからです。

和田さんは次のように書かれています。
スイングパスを導入
 この時にはスイングパスに重点が置かれ、アタックラインの浅さにはあまり重点が置かれていないようでした。アウトサイドセンター(2番目のセンター)で突破するような考え方のようでした。

 スイングパスの威力 「71年(昭和46年)のシーズンを振り返る」では「スイングパスに加え、浅いアタックライン、横へ伸びる、すれ違いに抜く」と言う言葉が使われています。京大では主にアウトサイドセンターで突破するように考えられていたようです。コチラからご覧になれます。

 私が初めて星名先生にお会いしたのが昭和40年(1965年)年で最初にスイングパスを全員に教えた後、極端に浅いアタックラインを教えてくれました。

 最初に和田さんに教えた時からさらに進歩して、極端に浅いアタックラインで更にボールを持つ前に想定されるタックルラインに走り込むようにすることを考え出されたようです。

 私の時にはコンビを組んだ左センターの石塚が横へ走るのが苦手で、私が横へ走るのが得意だったので、私をインサイドセンターに固定し、インサイドセンターで突破するように変更されたみたいです。

 星名先生が重視したのはスタンドオフのパスのタイミングで、スイングパスはスタンドオフが相手の内側に入り、スイングすることで少しパスのタイミングをずらせ、私が横に大きく走る時間を稼ぐように指導されていました。

 星名先生の理論についてはアニメや動画で説明していますので、コチラからからご覧ください。


岡先生とダイマルと楽苦美(ラグビー)

  今日10月20日はラグビー界のレジェンドの一人平尾誠二の命日です。彼について何か書こうかと思ったのですが、写真などの材料がなく、書くことができませんでした。平尾についての詳しいことはコチラから

 林敏之氏(ニックネーム、ダイマル)と連絡が取れたので、ダイマルと岡先生のことについて書こうと思い、下の写真をもらいました。
 ケンブリッジで撮ったものだと聞きました。
 岡先生、林 ケンブリッジ
 
 岡仁詩、林敏之、ラグビー、ケンブリッジで検索したのですが、ヒットしたのが、「林 敏之の楽苦美(ラグビー)ブログ」と下の写真でした。
岡先生、林 2ショット 2007年05月12日付「岡仁詩先生を偲んで」で前日の5月11日に永眠された岡先生についての話でした。

 彼らしい、本当に心のこもった文章で思わず、私まで涙ぐんでしまいました。
 ラグビーの私の友人の多くは、大雑把でいい加減で、どちらかというと照れ屋で、押しの強さばかりが目立つ奴が多いと感じていました。
 その中で彼は、本当に自分の気持ちに正直で、毎回本音で話し、しかもそれを必ず実行するすごい男だと思っていました。

 この写真は彼がラグビーの良さを子供達に知ってもらうため、NPO法人「ヒーローズ」を立ち上げた時のものです。 
「ヒーローズとは 誰もがそれぞれの人生のHEROになれるように支援 し、豊かな共生社会の創造と将来世代の育成のため、
3つのHと3つのE 
 HAPPY・HEALTH・HUMAN 
 EDUCATION・EMOTION・ENCOUNTER 
 に関する事業を行なう」という意味だそうです。

 表現能力に欠ける私がとやかく言うよりもこのページを読んでいただいた方がわかりやすいので、リンクを貼っておきました。
 彼のこのブログは来年1月で閉鎖になるとのことですので、わたくしのGoogle Driveの中にPDFとして取り込みましたので、コチラからご覧ください。



岡先生の指導の仕方 

  岡先生は選手を叱る時、いつ、どのような時に、どのような怒り方をしたら良いのかいつも考えておられるようでした。

 まず、NPOのヒーローズの会長の林敏之氏と日本ラグビー協会会長の土田雅人氏の対談の動画をご覧ください。
 コチラからご覧になれます。
そういう時こそ
 時間のない方は「岡先生の指導」の部分だけコチラからご覧になれます。

 ラグビーのことを知らない方のために簡単に林氏の略歴です。 
 林敏之(愛称、ダイマル)、日本のラグビー界のレジェンドの一人、同志社、神戸製鋼を日本一にして、イギリスのオックスフォード大学に留学、歴代のベスト15に選ばれ、ラグビーの世界選抜、バーバリアンズにも選ばれたこともある。詳しくはウィキペディアをご覧ください。
 コチラからご覧になれます。

 この動画に出てくる3選手、林、土田、平尾は日本を代表する選手です。その選手を叱る時、岡先生はどのように叱ったかがよくわかります。

 岡先生は感情に左右される人ではありません。いつも冷静に、選手の叱り方、叱る時を考えておられるようです。

 私も一度だけ叱られたことがあります。大学4年生の時の春の京都市役所との練習試合です。当時の京都市役所は同志社からの選手も多く、また、スクールウォーズのモデルとなった日本代表の山口さんもいて、非常に強かった時代です。この試合は岡先生自らレフリーの笛を吹かれておられました。

 私はディフェンスにも自信を持っていたのですが、相手には私の事をよく知っている先輩が多く、私のマークの選手にはボールを持たせません。FWも圧倒されていたのでアタックも良いボールが回ってきません。ボールを持つ機会があったのですが、大きく突破するのは無理だと思ったので、内に入ってFWの選手にボールを戻しました。

 突然、岡先生が「浦、痛いラグビーはやらんのか」と言って怒り、試合を止めて、両チーム見ている前で、私に生タックルの練習をさせました。この瞬間頭の中が真っ白になり、寒気がして体が震えたのを覚えています。

 ゲームが再開されたのですが、相変わらず私の対面がボールを持つ機会がなく、タックルもできません。どうしてもこの怒りをタックルで相手にぶつけたい私は、私の隣の選手の対面にタックルすることにしました。その選手は同志社大学の2年先輩で私が1年生の時、一緒にセンターを組んでいた玉田さんでした。
 玉田さんの動きはよく分かっていたのでボールを持って走っていくコースが予測できたので、そこに向かって最短距離を全力で走って行き、加速をつけて思い切りタックルしました。こんな激しいタックルをしたのは初めてのことだと思います。

 この時のタックルを受けた玉田さんと、私が卒業してから数年後、夏合宿で話をする機会がありました。
 「少し早いけど、引退する。お前の所為や。首がおかしくなった。ムチウチは後ろからぶつかられて、頭だけが残って、身体が前に動いて首を痛めるけど、全く逆で、前からぶつかられて、身体だけが後ろに持っていかれて、首がおかしくなった。痛みは大した事はない。自分の対面の動きは見えていたが、まさかその外側のお前があんなに早くタックルに来るとは思わなかった。それがトラウマの様になり、前に思い切って出ることが出来なくなり、思うようなプレイが出来なくなった」
 勿論私を非難する様な口調ではなく、褒めてくれている様子でした。

 京都市役所との練習試合の数日後岡先生から呼ばれその時の話をされました。「お前が悪くなかったのはよくわかっている。しかし、試合の流れを変えるのには無茶をやることが必要だった。俺は上級生しかあんな怒り方はしない。お前の同期はみんな性格のおとなしい奴ばかりで、俺が怒るとみんなシュンとして落ち込んでしまう。怒られて気が狂ったようになって無茶をするのはお前しかいない。お前のタックルで流れが変わって勝つことができた。今後も怒られ役になって欲しい」との事でした。
 
 私は自分より力の上の相手や、悪い試合の流れを断ち切るには、通常の判断ではなく、狂気のような、大胆な慣習にとらわれない発想が必要だと教えられました。
 おかげで、その年の秋の京都市役所戦には勝つことができました。
京都市役所戦
 

 

伝統のジャージの重み

伝統のジャージの重みの私のYouTube(短編)はコチラから、京大100周年の全編はコチラからご覧ください。

自分の体が軽い.
 坂田さんは1975年1月15日に国立競技場で開催された日本選手権の対早大戦に勝利し、それを最後に現役引退されました。
 そのジャージを脱いだ時、ジャージの重さを実感されたとのことです。「こんなに自分の体が軽いのか」 
 同志社大学、近鉄を日本一にして、カンタベリー州代表、ニュージーランド大学選抜、NZバーバリアンズなどのユニホームをきた坂田さんだけが言える言葉だと思います。

 1968年、大西鉄之祐監督率いる全日本のニュージーランド遠征メンバーに選ばれ、オールブラックス・ジュニア相手に4トライを上げ、大金星に貢献。「世界のサカタ:FLYING WING SAKATA (空飛ぶウィング・サカタ)」として名を轟かせ、ニュージーランドの「プレイヤーズ・オブ・ザ・イヤー」にも輝きました。

 2007年にはW杯の開会式に「伝説的選手:ラグビー・レジェンド」の一員として招待され、2007年9月7日、第6回ラグビーワールドカップの開幕式典に、世界を代表する20人の伝説的な名選手による「ラグビー・レジェンド」として登場するなど、世界的に称賛されました。

 でも、私が驚いたのはその素晴らしい人間性です。これだけの賞賛を浴びながら、気さくだし、偉ぶらないし、誰にでも話をしてくれます。私が1年生の時、坂田さんは4年生だったので、私が左センターで一緒にコンビを組んでプレーしたのは、1年生の時の秋のシーズン最初と最後の大学選手権です。それ以外は私は右センターで2年生の終わりの春休みに全同志社でニュージーランドへ遠征し一緒にプレさせてもらいました。
 そして3年生の秋、ニュージーランドのアスレチッククラブが来日した時に全同志社で対戦した時でした。
アスレチック記事写真のみ
 上の写真ですが、この時は当然相手のカバーディフェンスがありましたが、坂田さんの走力でトライが取れる、と思っていたら、写真の下の記事に書いてあるように、無理をせず、フォローしていた私にリターンパスを返してくれました。坂田さんがいつものように走り切ると思っていたので、びっくりしましたがおかげで私がトライすることができました。もうその時は全同志社の勝利は見えていたので、OBの自分がトライをするより、現役の私がトライをした方が良いとの判断だったのではと思います。

 京大の100周年に「京大のジャージーには、途切れず積み重ねた100年分の重みがある。着る選手には誇り、責任、勇気が必要だ。こうしたことを意識できるチームは強い」と言われましたが、この言葉を語れる人は坂田さん以外にはいないと感じました。

  

2022-10-11

スポーツマンの目について 2

 

 
 坂田さん、小笠原さんと近鉄でプレーしていたレジェンドが続いたのですが、もう一人レジェンドで石塚さんがいます。石塚さんは同志社が第1回日本選手権で優勝した時のキャプテンで、日本代表のキャプテンでもありました。石塚さんの弟が私と同期で一緒にセンターを組んでいたので、石塚家のファミリーとは非常に親しくさせていただきました。

 石塚ファミリーについてはいろいろ書きたいことがあるので次回に回して、今回は目がテーマですので、石塚さんが一番恐れていた人、同志社が日本選手権の前身、NHK杯で優勝した時のキャプテン、中得四郎さんの話です。
石塚さんNZ,Jal
 大学2年の終わり春休みにニュージーランドへ遠征しました。写真前列一番右が石塚さんです。その左は宮地さん、その左は金野さん、私は7番目で横を向いています。
 
 その時、石塚さんと話す機会があり、石塚さんが成長したのは中得さんのお陰だと言われました。
 理由を聞くと、中得さんのプレーが激しすぎて、怖くて、敵として闘いたくないので、早く一軍になりたくて必死に練習したということでした。
 私も1年生の時に中得さんに凄まじいタックルをされたことがあるので、思わず納得してしまいました。

 秋も深くなり、AチームとBチームの練習試合があったのですが、練習を見に来ていた中得さんがBチームのナンバー8に入り試合をしました。試合終了間際、ラックサイドを抜こうとして走り込んだ私は中得さんの強烈タックルをうけ、2メートルほど横へ跳ね飛ばされました。

 私はボールを持って抜きに入った時にタックルされたのは大学時代4回だけで、全て誰にタックルされたのか覚えています。
 
 真横に飛ばされたのは中得さんの頭が私の腰骨の尖ったところにあたったからです。中得さんの頭がざっくりと割れて血が噴き出していました。頭が当たったところが腰の骨の尖ったところだったので、衝撃が中得さんの頭の方にいき、私は反動で真逆の方向に跳ね飛ばされましたが、少し当たる場所が上下にずれていたら、私は大怪我をしていたと思います。

 試合はそこで終わりになり、中得さんは救急車で運ばれましたが、顔中血まみれなのに、笑っている中得さんの目を見た時には、本当に怖いと感じました。
 シャワーを浴びる時に気づいたのですが、私の腰骨の尖った部分の皮膚が擦り切れたようになって出血をしていました。

 これ以後中得さんは私のことを気に入ってくれたみたいで、よく声をかけていただきました。その時の目は普通で優しい人のように感じたのですが、ラグビーの試合になると人が変わるみたいです。
 でもラグビーはそれが当たり前だと思います。

 目の話になると、私にはどうしても話さなければならない奴がいます。私がタックルされた4人の一人はメチャこと同期の渡辺脩です。4年生の時の秋の部内試合、相手のキックを受けた私は十分間合いがあるのに、メチャにタックルされました。
 
 これを見た岡先生が「ウラ、どうした。お前がボールを持ってタックルされるのはあまり記憶がないが」「抜く時に相手の目を見るのですが、どこに目があるかわらず、探しているうちにタックルされました」と答えると「お前らしいひねくれた言葉や」と言って大笑いされておられました。

 実際は目のある位置はわかっていたのですが、私の目を見ず、足首しか見ていないので動揺したものです」
 素晴らしいタックルでした。

 中得さんは昨年、石塚さんは今年、永眠されました。
 お二人の安らかなご永眠を心よりお祈りしています。

坂田さんと石塚さん
 坂田さんと石塚さん この時の坂田さんの目を見て、坂田さんの試合中の目の強さを思い出しました。
 この写真と上の写真とその下にあるジャージは石塚さんの棺の中に納められたとのことです。

追加
 坂田さんのニックネームを「デメ」と書いてしまいましたが、これは私の学生時代で現在は世界中で「デミ」と呼ばれているとのことです。
 下の写真のデータを見て気づきました。お詫びします。
坂田 Demi

スポーツマンの目について 1

 星名先生について書いていると坂田さんから下記のような話をメールでいただきました。

何かやってくるんじゃないか

「大学1年生の時星名先生のコメントを思い出しました

あるスポーツ新聞に新人紹介する欄があり私のことを良い目をしてるとコメントされました

ラグビーのプレーのことでコメントされると思っていましたが違った目で見られていました

長い間プレイしましたがこんなコメントは初めてです

色々な角度から選手を見られていたと思います

この言葉思い出の一つです」

 ということで今回はスポーツ選手と目のことについて書いてみます。

 坂田さんのニックネームは「デメ」です。目が飛び出しているとは思いませんが、新聞などの写真で見ると、確かにボールを持って走るときの目の強さが目立つようです。

 星名先生の息子さんの星名倫さんは視力が4.0だという噂を聞いたことがあります。

 星名倫さんが永眠されました。星名倫さんは射撃の名手で世界チャンピオンでした。

星名倫さん写真

 星名倫さんのことは大学時代にいろいろな話を聞いていました。射撃の世界チャンピオンはすぐ信じられましたが、視力が4.0 で電車の駅のホームの反対側の人が読んでいる新聞が読めると聞き、これは信じられませんでした。

 目が印象に残っているのは近鉄で坂田さんと同じ時期に活躍されていたレジェンドの一人、ロックの小笠原博さんです。釣り上がった鋭い目は、対戦するのが嫌でした。

 先日訃報を目にしました。小笠原さんには一度だけ神戸でご馳走になりました。小笠原さんがワールドの監督をしている時に、東田、松尾など同志社の選手が多かったので、ワールドに立ち寄った時、小笠原さんにお会いしました。

 私の訪問を非常に喜んでくれ「今日は神戸に泊まれ、ワールドの寮に部屋を取る」

 食事の後、バーを3軒ほどハシゴしました。

「お前は憎たらしいプレーをする。痛い目に合わせようと思って狙ってたんやけど、一度も触らせてもらえへんかった」

 鋭い目は同じでしたが、非常に気持ちの良い、さっぱりした性格が感じ取れました。


 星名倫さん、小笠原博さんの安らかなご永眠を心よりお祈りしています


星名ラグビー「何かやりそうだ」

  坂田さんは京大100周年誌デジタルコンテンツのインタビューの中で次のように語られています。

  コチラからご覧になれます。

 京大戦は緊張した。
京大戦は緊張した 星名先生が教えれておられるので「何かやってくるんじゃないか」

何かやってくるんじゃないか

 星名先生の理論の凄さは皆知っているので、私も同様に感じていました。

 大学4年生の時の京都大学戦ではその凄さに驚きました。前半は京大の早い試合運びに振り回され、リードされてゴール前まで攻め込まれていた時にそのプレーは起きました。

 ゴールポスト前のラックで京大はセンターの宮崎が反対側の私のサイドに走りこんで来たので、相手が3人こちらが2人でこちらが一人少ない場面になるところでした。

 私が宮崎に向かってタックルに行けば、宮崎はパスをして残りは2対1となり、簡単にトライされます。また私が宮崎にタックルに行かず、私の対面の選手にタックルに行くと、宮崎はパスをせずに私の背中を抜いて、走ってトライをします。これは宮崎の得意のプレーの一つで、彼が判断ミスやパスのタイミングを外すことはないと思いました。

 私は宮崎の方向に向かって少し走り、すぐ私の対面の選手の方向へ向きを変えて、またすぐ方向を私がスタートした場所へ戻る、丸く円を描くような走りをしました。その間宮崎の顔も方向も一度も見ていません。タックルのために姿勢を低くする間もなく、宮崎と正面衝突するような形でぶつかり、抱きかかえるような形でタックルをしました。

 その瞬間宮崎が「ナイスタックル」と口走りました。 数十年経ち、宮崎(故人)と最後に会った時に、この時の話になり、「お前のタックルがなかったら京大は同志社に勝っていた」「俺もそう思う、あの時の京大の勢いはすごかったので、もしあそこでトライを取られていたら、後半巻き返すこともできなかったと思う」

 「一度ゆっくりこの話をしたい」と言ったのが、宮崎の最後の言葉で、数年後、彼は永眠しました。

 本当に星名先生のラグビー理論はすごいものです。

 この時の詳しい動きはコチラからご覧になれます。