星名先生の理論と岡先生の理論 41−50(時系列)

星名理論と岡理論 41 岡先生とのやりとりについて2

 自分で考え、判断して、行動し、責任を持つ


 仕事関係の話が続きましたが、ラグビーの話に戻ります。
 私の常識はずれの程度の酷さの例ばかりですが、私はおかしいのは会社の方で、私は会社のために、売り上げを上げるために、最善の方法を取っただけだと思っています。

 岡先生は「ラグビーはFW戦に勝てなければ試合に勝てない」と考え、FW戦に勝つためにはまずスクラムに勝たなければならない。そのために10人でスクラムを組む事を選びました。
 私は広告業界では接待が重要だと感じたので、接待戦に勝つことに注力しただけのことです。

岡先生は「教わり教え教えられ」で次のように書いておられます。
自分で考え、責任を持つ

 私は違法行為は一切していません。接待費の予算を大きく超過しましたが、それは高率の税額で正当に経理処理しており、官庁関係との仕事では接待費は一切使っておりません。
 ルールの中で、無用な会社のしきたりや常識を破っただけのことです。

 ラグビーでも同様です。私はチームプレーの重要さは十分承知しています。しかし、私は試合前のチームの決め事をいつも破る、常識では考えられないようなプレーをしていました。
 でも、そのことで岡先生に怒られたことは一度もありません。
 
 ラグビーは自由で変化が基本のスポーツです。30人の選手が入り乱れて、動き回るので、想像もできないような場面ばかりです。その中で最適の判断をする時には、事前の決め事では対処できない場合が沢山出てきます。その時には私は躊躇無く、決め事を無視して私が取るべき対応を選びます。

 その決め事を無視した対応があまりにも常識はずれの、普通の人では思いもつかない対応なので物議を醸すだけです。

 岡先生は、そんな私の対応を高く評価してくれていたみたいです。
岡先生 セピア1

  私の常識はずれのプレーとそれに対する岡先生のやりとりを書いてみたいと思います。


星名理論と岡理論 42 岡先生とのやりとりについて 3

FWがスクラムを組んでいた場所に走り込む

 岡先生とプレーのことで話すようになったのは大学1年生の夏合宿でした。

 春の練習の終わりには1軍に入れてもらい試合に出してもらったのですが、夏合宿のスタートは2軍からでした。1軍と2軍の試合が始まるようになり、レフリーは岡先生自ら笛を吹かれていました。

 試合が始まると、もちろん1軍が圧倒しているのですが、数少ない2軍のアタックのおり、私は何度も1軍のバックスのディフェンスを突破しました。岡先生が驚かれたのは私の突破した後の走るコースです。

 自分のマークを抜くと、FWがスクラムを組んでいた場所へ走り込んで更に突破してしまうことです。
 普通、バックスのセンターの選手は外(フォワードがいる場所から遠い方)へ抜くケースが多く、内側に抜くことは、FWに向かって走ることになるので、すぐ外側に方向転換して走るケースが多いのですが、方向転換でスピードが落ちるので、カバーディフェンスに捕まりやすく、多くの選手は最初から外側に抜く事を考えます。

 私も外側に抜くのが得意なのですが、外側ばかり抜いていると、相手もそれを予想して動くようになります。私はそれも計算に入れ、意識的に最初は内側に抜くプレーをするようにしていました。そのプレーを先にすることにより、外側に抜きやすくなるからです。

 時々、内側に突破して、外側に方向転換せず、スクラムなどで一番密集していた場所に走り込みました。その時、タックルされずに、走り抜けることが多かったので、岡先生が驚いたわけです。

 試合が終わり、岡先生から呼ばれ、プレーについての話をしました。岡先生がプレーのことについて、私と話をするのはこれが初めてのことです。

「よく抜くな。なんであんなFWがスクラムを組んでいた、一番数が多いところを抜けるんだ? うちのFWは日本1のFWやぞ」
 岡先生のいう通り、その年の3月に日本選手権で社会人のトップ、八幡製鉄と近鉄を破り優勝し、4月に卒業生を出しましたが、まだ大半のメンバーは残っていました。

 「最初は何も考えずに直感的に空いている場所を探して走り込んでいました。何回か抜けたので、何故かと考えたら、FWはスクラムを組み終わると、全員がフォローをしに走り始めるので、スクラムを組んでいた場所だけが、誰もいなくなることに気づきました。それからは意図的にFWがスクラムを組んでいた場所に走り込むようになりました」

 「なるほど、でもこれはお前しかできないプレーかもな。他のやつは最初の自分のマークを外すことに苦労しているから。自分のマークを抜かない限り、お前と同じような経験はする事がないからな」

 その後すぐまた1軍に戻り、それ以後は1軍の試合には4年間、ほとんどの試合に出ることになりました。
岡遠征、平尾?
夏合宿での岡先生、東田、児玉がいるので、後ろ姿は多分 平尾
 

岡先生は私とラグビーのプレーを話すことが多くなったのはこれからでした。岡先生は私の考えていることが、常識はずれで、考えたこともなかったようで、興味を持たれたようでした。

星名理論と岡理論 43   岡先生とのやりとりについて 4

慶応戦でFWの中央を突破してトライ

   私が星名先生、岡先生から教えていただいたことで、最も印象に残っているのは「戦略の順序と時間配分」でした。 

 バックスのセンターというポジションでのプレイの実施順序の意識は持っていました。 外へ抜くのが得意な私は、外へ抜いて勝負に出るのは後半で、前半は内側に抜いて、相手の意識を内側に向けておいて、後半は、まず内側に向けてスタートして外側に抜く事を心がけていました。 

 でもこれは戦術的なレベルでのプレーで、戦略というほどのレベルのものではありませんでした。星名先生、岡先生から教えていただいとことは、私個人レベルではなく、チームとして戦略的な実施順序と時間配分でした。

 詳しくは「星名理論と岡理 28から31をご覧ください。右欄のカテゴリーの「星名理論と岡理論」をクリックすれば、時系列に1からご覧になれます。

 また右欄の検索フォームで「星名理論」と入れれば、一覧で表示されますので、好きな部分がご覧になれます。

 私はトライを狙ってプレーをしたことはありません。突破して味方の選手に繋ぐ事を意識しているのですが、結果としてトライをしてしまうことが多くありました。

 慶應戦の下の写真もトライは結果として起きたものです。

慶應戦

 写真の下の記事には「前半15分、慶大ゴール前のルース(今はラックと呼ばれています)を左に回し、浦野が強引に右中間へ決める」と書いてあります。

  前半15分ですので、内側(フォワードの選手が沢山いる場所)へ向かって走り込み、そのまま結果としてトライをしたものです。写真が白黒なのでわかりづらいですが、私の周りにいる4人は全員慶應の選手です。

 フォワードの選手が沢山いたのですが、全員外へ向かって走り始めたところですので、今まで選手がいた場所だけが、誰もいない場所になってくるので、そこに走り込んだものです。

 このような発想を持つ選手があまりいなかったので、私の発想が非常に突飛なもののように感じられただけです。


星名理論と岡理論 44  岡先生とのやりとりについて 5

近鉄戦でのラックに入ってトライ

 私は身長が173センチ、体重が60キロ弱で今でもほとんど変わっていません。体重が軽いのでラック(両チームの3人以上の選手が立ったままでボールを奪い合っている状態)には入ることがありませんでした。

 岡先生の考え方は、「バックスの選手はその選手がラックに入ればボールが取れるのであれば、必ず入れ」と言うもので、「ラックの初期で人数が少ない時にはバックスの選手でもラックに入れ」と指示されていました。

 でも私には「お前は好きにしろ。お前がラックに入ってボールが味方ボールになったとしても、お前のいないバックスにボールを回した方が良いのか、それともお前がバックスにそのまま残って、相手にボールを出させた方ば良いのか、よく分からん。お前の常識では考えられないプレーは悪い流れを変える時がある。万が一、お前がラックに入って、相手にボールを取られて、お前がディフェンスにいない事を考えたら、無理に入る必要はないかも知れない」

 大学4年生の近鉄戦では私はラックに入りました。当時の近鉄は同志社から石塚さん、坂田さんという、日本を代表するレジェンドが入り、日本選手権で優勝しているチームでした。

 下の写真の記事にあるように、私はこの試合で2トライしましたが、二つ目のトライはラックの中に入って、トライしたものでした。

 相手ゴール前の4人ほどの選手が入り乱れているラックで、すぐ前にいた私には、ラックの選手の間に隙間があり、その先にボールが見えていました。痩せて細い私なら、この隙間に入り込み、相手側に出ることができるのではと思い、突っ込んでいきました。

 普通はラックに入ると選手に肩をつけ押すのですが、私は押さずにすり抜けました。そうしたら目の前にボールがあり、もうラックの外にいたので、ボールを手で拾うことができるのでボールを拾ってそのままトライしました。

 これには岡先生もびっくりしたようです。「お前は、本当に常識では考えられないことをするな」と言って、笑っておられました。

近鉄 坂田さん
 写真は1年生の時一緒にコンビを組んでした坂田さん(国際ラグビーボードの殿堂入り、世界のラグビーのレジェンド) 


星名理論と岡理論 45 岡先生とのやりとりについて 6

天理戦でのフォワードへのタックル

 私のプレーはチームの決め事を無視するケースが多くありました。これはチームとして決めたプレーが想定した状況とは違う可能性が出てきたときだけです。
 例えば、バックスのディフェンスは揃って一線となって、全力で飛び出そうと決めても、私がいつも一番早く、飛び出していました。

 走るスピードは全員同じぐらいですが、私は本当に全力で飛び出しているのですが、他の選手は揃って一線にすることに意識が行きすぎて、80%位のスピードを全力疾走だと思い込んでいるから私より遅れる訳です。
 
 所が内側の二人が全力で飛び出した時には私は後ろに向かって走っています。これは、内側の二人が本当に全力で飛び出したら、相手の選手はタックルが届くのを恐れて、キックをすることが多いので、キックしたボールが落下する地点を予測して、後ろに向かうからです。

 私はいつも、私よりボールに近い選手(前にいる選手)の動きを見て、自分の動きを決めているだけです。

 相手チームもほとんど高いレベルのチームばかりです。それぞれ鍛えられており、個々の選手の判断力もあるので、私の読みが狂うことはあまりありません。相手のチームは我々の動きに反応します。その状況に合わせて、自分のプレーを選択しています。

 岡先生は私のことを理解してくれていました。そして私のプレーを注視していてくれたみたいです。普通の人では気づかない私のプレーを褒めてくれました。

 4年生の天理大との試合で相手のFWの選手にタックルした時も、タックルしたのが私だと言うことに気づいたのは岡先生だけかもしれません。
4年天理戦

 その時の天理大はFWが結構強く、試合は同志社が勝っていましたが、後半はFWが圧倒されていて連続で3トライされました。更に、ゴール近くまでラックサイドを何度も攻めらました。

 私はその時、アウトサイドセンター(ラックの位置より遠いセンター)だったのですが、このままではラックサイドを突破されトライされると思い、自分のポジションを離れ、ラックに近づいていき、突破される寸前にタックルしてピンチを救いました。
 
 本来私がいる位置ではなかったので、相手がボールをもらった瞬間にタックルをしたので、見ていた人のほとんどが、誰がタックルしたのか分からない、と思いました。このタックルで流れが変わり、また私たちのチームが勢いを取り戻しました。

 でも、岡先生だけはタックルしたのが私だと言うことを見ていてくれました。「浦、お前のタックルで流れが変わった。なんであんな所でタックルできたんだ?」「私は数学は苦手ですが、算数の引き算ぐらいできます。
 相手の自由な選手が3人いて、味方のそれにタックルできる選手が2人だったら、最後は相手が一人多くなるので、ほっとおけばトライされるので、自分のポジションを離れて、FWの近くに走って行ったら、ちょうど相手の選手がボールを持つ所だったので、ボールを受けた瞬間にタックルに入りました」「なるほどな、引き算か」と言って笑っていました。

 この時も、私は私の前(ラックに近い2人の選手)の動きを見て、彼らは自分のマークの選手にタックルに行くつもりだと思い、もし、相手がバックスに回しても、彼らがいれば、トライされることはないと判断して、自分のポジションを離れました。
 私の読みが間違ったとしても、チームに大きな打撃があるとは思いませんでした。
 


星名理論と岡理論 46  重要なことは完了形であること。

直感的に、本能的に行動する。
 
 岡先生の「自分で考え、判断して、行動し、責任を持つ」は、「既存の法律やルール」の慣習や前例に囚われず、その本質をもう一度考え直すことをするように仰っているのでは、と感じていました。
 
 この考え方には完全に納得できるものですが、でも私のしてきたことは少し順序が違っている様でした。「行動して、考え、判断して、行動して、責任を持つ」と言うように、まず「直感的に、本能的に行動する事が先にあり、それから考えて、改めて判断して、行動をして、責任を持つ」が私のしてきたことのようです。
 
 天理戦での私のタックルに岡先生も驚かれてようですが、性格的なものかわかりませんが、私はほとんどの場合、まず行動が先にあり、それからこの行動がよかったのか悪かったのか、考えるタイプみたいで、この性格がラグビーに向いていたのだと思っています。
 
 天理戦ではフォワードから遠く離れた場所に立っているはずの私が、相手の選手がボールを受けた瞬間にタックルに入り、トライされるのを防ぐ事ができたのは、「相手がボールを受けた瞬間にタックルに入れる位置に既にもう走り込んでいた」と言う、完了形だったからで、「ピンチになったら走ってタックルにいこう」と言う、意識では遅いと言う事です。
 
 大昔の歌の文句で「口で言うより手の方が早い、バカを相手の時じゃない」と言うのがありましたが、それよりもっと早い「頭で考えるより、もっと早く、もう動き出している、大馬鹿」が私、と言うことになるでしょう。
 
 元々このような性格を持っていた私に、さらに追い打ちをかけるように影響を与えたのが星名先生、岡先生です。 「星名理論と岡理論27からのラグビーの戦略の順序と時間配分」にお二人の考え方が詳しく書いてあります。
 戦略の順序と時間配分はこちらから
 
 星名先生と岡先生の影響を受けた私は、直感的に、本能的に、これは先にしておくべきことだと、考えられるものは、あまり深く考えずに、すぐしてしまう性格になってしまいました。とりあえず、先に完了形にして、それから、これをどのように活かしたら良いのか、考え、判断し、行動して、責任を持つ」ようにしています。
                       星名先生
星名先生一人
 
 
星名理論と岡理論 47


ラグビーの大学選手権の早稲田戦で負傷退場
 
 星名先生、岡先生が考案された10人スクラムの効果は抜群でした。当時の秩父宮ラグビー場は、関東のローム層の地盤の上に芝が貼ってあるのですが、冬になり、夜の気温が0度近くになると霜柱が立ち、これが昼間温度が上がると溶けて、上滑りして、慣れていない関西の選手は足が滑り、スクラムもうまく組めませんでした。
 
 1回戦の日大戦は強力フォワードの日大に10人スクラムで圧倒し、2回戦、準決勝の早稲田は7人ファオワードでバックスが一人多く、バックスに重点を置いた対照的なチームでした。
 
 この試合開始して間も無く、私はタックルに行く時、上滑りして足を滑らせ、体制を崩し、後ろの選手の膝の上に体を捻りながら、相手の選手を抱きかかえて倒れ込みました。
 私と相手の選手の体重が、捻った腰の一点にかかった為、骨には異常はなかったのですが、腰の損傷は激しいもので、それから1ヶ月ほど歩くのも困難な時が続きました。
3年早稲田戦 負傷退場
 
 この時期はまだ負傷退場でも、選手の交代は認められない時期で、同志社は14人で戦うことになり、試合は負けてしまいました。
 私が試合途中で負傷退場したのはこれが初めてで、同志社大学に入り、これまで公式戦は1年生の時から、試合に出なかったのは、社会人対抗の近鉄、大阪府警戦の2試合だけでした。脳震盪で倒れたことはありましたが、退場は一度もありませんでした。
 
 この時の負傷は、私のその後のプレーに大きく影響を与えたようです。1ヶ月ほどのほぼ寝たきりの生活は、復帰後のランニングのフォームが少し変わったようで、その後、太ももの肉離れを起こすようになりました。
 
 これは現在までも続いています。スペインに来てラグビーを再開してからも、スピードがでてくると、太ももの肉離れを起こすみたいです。厄介な体になってしまいました。
 

星名理論と岡理論 48  丸紅で星名理論を実践

丸紅、人事部の倉田さん、

東京へ出た私は同期の伊藤(故人、同志社が大学選手権で優勝した時の監督)が商社の丸紅でラグビーをしていて誘われました。丸紅は商社リーグというのに入っていて、チームメートというシステムがあり、数名の社外の人間も登録して試合に出られるとのことでした。

 当時の丸紅は、人事部の倉田さん(故人、京大卒)が京大や同志社や慶應の選手を集めていて、同期の宮崎(京大で私と同じポジション)もいて、スクラムハーフ、伊藤、スタンドオフ宮崎、なので、星名先生の理論を実践できるとのことで、丸紅でラグビーをやらしてもらうことにしました。

 一番印象に残っている試合は練習試合ですが、朝日生命(当時関東社会人の1部)との試合でした。倉田さんが、「練習試合なので、丁度京大でスタンドオフをしていた中村孝太郎が東京に遊びにきているので、伊藤、中村のハーフ団に、宮崎、浦野のセンターで楽しんで来い」と言って、送り出してくれました。

 京大と同志社は一緒に練習したりしたこともあり、皆同期で顔見知りだったので、楽しい試合でした。

 当時はまだ丸紅は社会人の2部か3部位だったのですが、1部の朝日生命のバックスのディフェンスをほとんど触られることなく抜いて、トライを重ねました。

 丁度その日は翌年に丸紅に入社する、上智大学のラグビー部のキャプテンが試合を見にきていたので、倉田さんが彼に「うちのバックスはどうや?」と聞いたら、試合が終わって帰ってきた私たちが小さかったり、痩せていたりで、とてもラグビーの選手には見えなかったので、「相手が弱すぎる。上智の2軍レベルですね」と答えたそうです。

 その時の朝日生命のセンターは小松、千葉という明治の大型バックスで有名な選手だったのですが。

 これを聞いた倉田さんは大喜びで、翌日から私の会社に何度も電話をしてきて、交換の女性に「上智大学の2軍程度のラグビーをする浦野さんと話がしたい」と言うので、会社の中では「浦野さんは、同志社で1年生からレギュラーだったと言う話だったけど、本当は上智大学の2軍程度のプレーしかできない」と言う噂が瞬く間に社内に広がりました。

 仕方がないので、私から倉田さんに電話するときには「上智の2軍程度のラグビーをする浦野です」と言って電話することにしました。倉田さんは大喜びでした。

1年京大戦記事のみ

1年生の時の京大戦 京大のメンバー表には石田さん、倉田さん、宮崎など懐かしい名前です。

 
大学1年 1964年 京大戦 同大が全勝優勝 浦野トライの写真
 この時の試合の写真です。何故か名前が間違えられていました。


星名理論と岡理論 49 

個性をなくしてはいけない。
 
私は差別は良くないが、差別化は重要と考えています。
 
  一般社会においては、人種差別、性差別など差別は良くありません。しかしマーケティングの世界では差別化が重要です。他の商品やサービスと自社のは、どのように違うのか、他との相違点をセールスポイントとして強調します。
 
 岡先生も同様の考え方をお持ちだったようです。
 私が同志社高校に行ったのは、兄が高校、大学と同志社で非常に自由な雰囲気のようだったので、行きたいと思っただけです。兄は同志社大学では空手部に入っており、私はスポーツを何もしていなかったのですが、空手をやりたいと思っていました。
 父も父の弟もラグビーの経験者で、同志社高校には空手部がなかったので、父と兄の勧めでラグビー部に入りました。ラグビーは父が時々、テレビで見ているのを横で数回見た事があるだけで、何も知りませんでした。
形のないのが同志社の形
 
 でも、私の無茶苦茶な性格は同志社の星名先生、岡先生の考え方に、合っていたようです。同志社以外でラグビーをしていたら、試合にも出してもらえない、冴えない選手だったと思います。
 星名先生や岡先生やその理論に関わるエピソードを書いていきたいと思います。

星名理論と岡理論 50 星名理論の継承

  私が星名先生に出会い、星名理論と言うべき「極端に浅いアタックライン」を教えていただいたのは大学2年生の時です。当然これは同志社のプレーとして次の世代に伝えるべきものですが、なかなか後継者が現れませんでした。

 星名先生の今までの理論とは全く真逆な、天動説から地動説に変わるようなプレーを実践できる走り方、横に走るスピードの速い選手が、その時の同志社にはいなかったのです。

 大型で縦に強い(真っ直ぐ前に走り突破する)タイプの選手が多く、私のような、痩せて体重が軽く、横に走るスピードの速い選手がいなかったので、結局私が在学中に、このプレーを伝える事ができませんでした。

 私はラグビーを始めると夢中になり、ラグビーのことばかり考えます。

 仕事ではマーケティングをやりたかったので、私がラグビーを本格的にするのを止めて、マーケティングの仕事につくのを後押ししてくれたのは星名先生でした。

 その時、ラグビーの先輩から星名先生の後押しを断るべきだとアドバイスされました。

「お前は今の同志社で、星名理論を実践できるただ一人の選手ではないか。そのお前が、ラグビーを止める手伝いを、星名先生がしてくれている。その星名先生の気持ちを考えれば、お前はラグビーの強いチームに入り、星名理論を啓蒙するべき、役割があるのでは」

 「星名理論は京大の選手もやっているし、日本代表も似たようなプレーをしています。そのうち、他のチームでもプレーするようになってくると思います。私はラグビーをやりだすと夢中になり、他のことが考えられないようになります。

 今はマーケティングの仕事をしたいので、せっかく星名先生が道をつけてくださったので、これを生涯の仕事としたいと思います」と言って、マーケティングを生涯学習のテーマとすることにしました。

 でも私の予想は外れたみたいです。似たようなプレーをするチームは時折、目にするときはあるし、最近の世界のラグビーも浅いアタックラインが主流になってきたように感じますが、星名理論と似通ってはいますが、少し違うように感じました。


 このような経緯もあり、コロナ禍で家に閉じ込むるケースが多くなったので、星名先生の理論、岡先生の理論の素晴らしさを、誰もが見る事ができるように、ブログに残すことにしました。

星名先生一人


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