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2021-11-22

星名理論と岡理論 45 岡先生とのやりとりについて 6

 天理戦でのフォワードへのタックル


 私のプレーはチームの決め事を無視するケースが多くありました。これはチームとして決めたプレーが想定した状況とは違う可能性が出てきたときだけです。
 例えば、バックスのディフェンスは揃って一線となって、全力で飛び出そうと決めても、私がいつも一番早く、飛び出していました。

 走るスピードは全員同じぐらいですが、私は本当に全力で飛び出しているのですが、他の選手は揃って一線にすることに意識が行きすぎて、80%位のスピードを全力疾走だと思い込んでいるから私より遅れる訳です。
 
 所が内側の二人が全力で飛び出した時には私は後ろに向かって走っています。これは、内側の二人が本当に全力で飛び出したら、相手の選手はタックルが届くのを恐れて、キックをすることが多いので、キックしたボールが落下する地点を予測して、後ろに向かうからです。

 私はいつも、私よりボールに近い選手(前にいる選手)の動きを見て、自分の動きを決めているだけです。

 相手チームもほとんど高いレベルのチームばかりです。それぞれ鍛えられており、個々の選手の判断力もあるので、私の読みが狂うことはあまりありません。相手のチームは我々の動きに反応します。その状況に合わせて、自分のプレーを選択しています。

 岡先生は私のことを理解してくれていました。そして私のプレーを注視していてくれたみたいです。普通の人では気づかない私のプレーを褒めてくれました。

 4年生の天理大との試合で相手のFWの選手にタックルした時も、タックルしたのが私だと言うことに気づいたのは岡先生だけかもしれません。
4年天理戦

 その時の天理大はFWが結構強く、試合は同志社が勝っていましたが、後半はFWが圧倒されていて連続で3トライされました。更に、ゴール近くまでラックサイドを何度も攻めらました。

 私はその時、アウトサイドセンター(ラックの位置より遠いセンター)だったのですが、このままではラックサイドを突破されトライされると思い、自分のポジションを離れ、ラックに近づいていき、突破される寸前にタックルしてピンチを救いました。
 
 本来私がいる位置ではなかったので、相手がボールをもらった瞬間にタックルをしたので、見ていた人のほとんどが、誰がタックルしたのか分からない、と思いました。このタックルで流れが変わり、また私たちのチームが勢いを取り戻しました。

 でも、岡先生だけはタックルしたのが私だと言うことを見ていてくれました。「浦、お前のタックルで流れが変わった。なんであんな所でタックルできたんだ?」「私は数学は苦手ですが、算数の引き算ぐらいできます。
 相手の自由な選手が3人いて、味方のそれにタックルできる選手が2人だったら、最後は相手が一人多くなるので、ほっとおけばトライされるので、自分のポジションを離れて、FWの近くに走って行ったら、ちょうど相手の選手がボールを持つ所だったので、ボールを受けた瞬間にタックルに入りました」「なるほどな、引き算か」と言って笑っていました。

 この時も、私は私の前(ラックに近い2人の選手)の動きを見て、彼らは自分のマークの選手にタックルに行くつもりだと思い、もし、相手がバックスに回しても、彼らがいれば、トライされることはないと判断して、自分のポジションを離れました。
 私の読みが間違ったとしても、チームに大きな打撃があるとは思いませんでした。
 

2021-11-21

星名理論と岡理論 44 岡先生とのやりとりについて 5

 近鉄戦でのラックに入ってトライ

 私は身長が173センチ、体重が60キロ弱で今でもほとんど変わっていません。体重が軽いのでラック(両チームの3人以上の選手が立ったままでボールを奪い合っている状態)には入ることがありませんでした。

 岡先生の考え方は、「バックスの選手はその選手がラックに入ればボールが取れるのであれば、必ず入れ」と言うもので、「ラックの初期で人数が少ない時にはバックスの選手でもラックに入れ」と指示されていました。

 でも私には「お前は好きにしろ。お前がラックに入ってボールが味方ボールになったとしても、お前のいないバックスにボールを回した方が良いのか、それともお前がバックスにそのまま残って、相手にボールを出させた方ば良いのか、よく分からん。お前の常識では考えられないプレーは悪い流れを変える時がある。万が一、お前がラックに入って、相手にボールを取られて、お前がディフェンスにいない事を考えたら、無理に入る必要はないかも知れない」

 大学4年生の近鉄戦では私はラックに入りました。当時の近鉄は同志社から石塚さん、坂田さんという、日本を代表するレジェンドが入り、日本選手権で優勝しているチームでした。

 下の写真の記事にあるように、私はこの試合で2トライしましたが、二つ目のトライはラックの中に入って、トライしたものでした。

 相手ゴール前の4人ほどの選手が入り乱れているラックで、すぐ前にいた私には、ラックの選手の間に隙間があり、その先にボールが見えていました。痩せて細い私なら、この隙間に入り込み、相手側に出ることができるのではと思い、突っ込んでいきました。

 普通はラックに入ると選手に肩をつけ押すのですが、私は押さずにすり抜けました。そうしたら目の前にボールがあり、もうラックの外にいたので、ボールを手で拾うことができるのでボールを拾ってそのままトライしました。

 これには岡先生もびっくりしたようです。「お前は、本当に常識では考えられないことをするな」と言って、笑っておられました。

近鉄 坂田さん
 写真は1年生の時一緒にコンビを組んでした坂田さん(国際ラグビーボードの殿堂入り、世界のラグビーのレジェンド)

2021-11-17

星名理論と岡理論 43 岡先生とのやりとりについて 4

 慶応戦でFWの中央を突破してトライ

   私が星名先生、岡先生から教えていただいたことで、最も印象に残っているのは「戦略の順序と時間配分」でした。 

 バックスのセンターというポジションでのプレイの実施順序の意識は持っていました。 外へ抜くのが得意な私は、外へ抜いて勝負に出るのは後半で、前半は内側に抜いて、相手の意識を内側に向けておいて、後半は、まず内側に向けてスタートして外側に抜く事を心がけていました。 

 でもこれは戦術的なレベルでのプレーで、戦略というほどのレベルのものではありませんでした。星名先生、岡先生から教えていただいとことは、私個人レベルではなく、チームとして戦略的な実施順序と時間配分でした。

 詳しくは「星名理論と岡理 28から31をご覧ください。右欄のカテゴリーの「星名理論と岡理論」をクリックすれば、時系列に1からご覧になれます。

 また右欄の検索フォームで「星名理論」と入れれば、一覧で表示されますので、好きな部分がご覧になれます。

 私はトライを狙ってプレーをしたことはありません。突破して味方の選手に繋ぐ事を意識しているのですが、結果としてトライをしてしまうことが多くありました。

 慶應戦の下の写真もトライは結果として起きたものです。

慶應戦

 写真の下の記事には「前半15分、慶大ゴール前のルース(今はラックと呼ばれています)を左に回し、浦野が強引に右中間へ決める」と書いてあります。

  前半15分ですので、内側(フォワードの選手が沢山いる場所)へ向かって走り込み、そのまま結果としてトライをしたものです。写真が白黒なのでわかりづらいですが、私の周りにいる4人は全員慶應の選手です。

 フォワードの選手が沢山いたのですが、全員外へ向かって走り始めたところですので、今まで選手がいた場所だけが、誰もいない場所になってくるので、そこに走り込んだものです。

 このような発想を持つ選手があまりいなかったので、私の発想が非常に突飛なもののように感じられただけです。

2021-11-16

星名理論と岡理論 42 岡先生とのやりとりについて 3

 FWがスクラムを組んでいた場所に走り込む


 岡先生とプレーのことで話すようになったのは大学1年生の夏合宿でした。

 春の練習の終わりには1軍に入れてもらい試合に出してもらったのですが、夏合宿のスタートは2軍からでした。1軍と2軍の試合が始まるようになり、レフリーは岡先生自ら笛を吹かれていました。

 試合が始まると、もちろん1軍が圧倒しているのですが、数少ない2軍のアタックのおり、私は何度も1軍のバックスのディフェンスを突破しました。岡先生が驚かれたのは私の突破した後の走るコースです。

 自分のマークを抜くと、FWがスクラムを組んでいた場所へ走り込んで更に突破してしまうことです。
 普通、バックスのセンターの選手は外(フォワードがいる場所から遠い方)へ抜くケースが多く、内側に抜くことは、FWに向かって走ることになるので、すぐ外側に方向転換して走るケースが多いのですが、方向転換でスピードが落ちるので、カバーディフェンスに捕まりやすく、多くの選手は最初から外側に抜く事を考えます。

 私も外側に抜くのが得意なのですが、外側ばかり抜いていると、相手もそれを予想して動くようになります。私はそれも計算に入れ、意識的に最初は内側に抜くプレーをするようにしていました。そのプレーを先にすることにより、外側に抜きやすくなるからです。

 時々、内側に突破して、外側に方向転換せず、スクラムなどで一番密集していた場所に走り込みました。その時、タックルされずに、走り抜けることが多かったので、岡先生が驚いたわけです。

 試合が終わり、岡先生から呼ばれ、プレーについての話をしました。岡先生がプレーのことについて、私と話をするのはこれが初めてのことです。

「よく抜くな。なんであんなFWがスクラムを組んでいた、一番数が多いところを抜けるんだ? うちのFWは日本1のFWやぞ」
 岡先生のいう通り、その年の3月に日本選手権で社会人のトップ、八幡製鉄と近鉄を破り優勝し、4月に卒業生を出しましたが、まだ大半のメンバーは残っていました。

 「最初は何も考えずに直感的に空いている場所を探して走り込んでいました。何回か抜けたので、何故かと考えたら、FWはスクラムを組み終わると、全員がフォローをしに走り始めるので、スクラムを組んでいた場所だけが、誰もいなくなることに気づきました。それからは意図的にFWがスクラムを組んでいた場所に走り込むようになりました」

 「なるほど、でもこれはお前しかできないプレーかもな。他のやつは最初の自分のマークを外すことに苦労しているから。自分のマークを抜かない限り、お前と同じような経験はする事がないからな」

 その後すぐまた1軍に戻り、それ以後は1軍の試合には4年間、ほとんどの試合に出ることになりました。
岡遠征、平尾?
夏合宿での岡先生、東田、児玉がいるので、後ろ姿は多分 平尾
 

岡先生は私とラグビーのプレーを話すことが多くなったのはこれからでした。岡先生は私の考えていることが、常識はずれで、考えたこともなかったようで、興味を持たれたようでした。
 

2021-11-14

名理論と岡理論 41 岡先生とのやりとりについて2

 自分で考え、判断して、行動し、責任を持つ


 仕事関係の話が続きましたが、ラグビーの話に戻ります。
 私の常識はずれの程度の酷さの例ばかりですが、私はおかしいのは会社の方で、私は会社のために、売り上げを上げるために、最善の方法を取っただけだと思っています。

 岡先生は「ラグビーはFW戦に勝てなければ試合に勝てない」と考え、FW戦に勝つためにはまずスクラムに勝たなければならない。そのために10人でスクラムを組む事を選びました。
 私は広告業界では接待が重要だと感じたので、接待戦に勝つことに注力しただけのことです。

岡先生は「教わり教え教えられ」で次のように書いておられます。
自分で考え、責任を持つ

 私は違法行為は一切していません。接待費の予算を大きく超過しましたが、それは高率の税額で正当に経理処理しており、官庁関係との仕事では接待費は一切使っておりません。
 ルールの中で、無用な会社のしきたりや常識を破っただけのことです。

 ラグビーでも同様です。私はチームプレーの重要さは十分承知しています。しかし、私は試合前のチームの決め事をいつも破る、常識では考えられないようなプレーをしていました。
 でも、そのことで岡先生に怒られたことは一度もありません。
 
 ラグビーは自由で変化が基本のスポーツです。30人の選手が入り乱れて、動き回るので、想像もできないような場面ばかりです。その中で最適の判断をする時には、事前の決め事では対処できない場合が沢山出てきます。その時には私は躊躇無く、決め事を無視して私が取るべき対応を選びます。

 その決め事を無視した対応があまりにも常識はずれの、普通の人では思いもつかない対応なので物議を醸すだけです。

 岡先生は、そんな私の対応を高く評価してくれていたみたいです。
岡先生 セピア1

  私の常識はずれのプレーとそれに対する岡先生のやりとりを書いてみたいと思います。

2021-11-13

星名理論と岡理論 40 常識やしきたりを全てひっくり返す 5

 夜食を出さない会議をボイコット

  私には大きな弱点があります。腹が減った時と怒って頭に血が上った時は、思考能力がなくなることです。これは今でも治っていません。

  この会社に入社して1年ほど経った時、役員総出の特別プロジェクトがあり、私が担当になりました。私以外は全員、部長か取締役です。緊急のプロジェクトだったので、夜7時から会議が始まりました。

 私は当然他の仕事もやっているので7時まで忙しく働いていました。会議は11時ごろまで続いたのですが、夜食が出てきません。もう思考力のなくなった私は「夜食をとりませんか」と言ったのですが、誰も反応しません。

  次の日にまた7時から会議だと言うので、部長に夜食が出るのか聞いたら、出ないと答えました。なぜ出ないのか聞いたら、「皆辛抱しているのに、なぜ君は辛抱できないのか?」「私一人が腹減っているのではなく、全員が食べる時間がなく、腹が減っているのであれば、食事を食べながら、会議をすれば良いではないですか」「腹が減っていても会議はできる」「私は腹が減ったら思考が停止して仕事はできません。出席しても意味が無いので、帰らしてもらいます」と言って、会議をボイコットしました。

  翌日、私が唯一信頼している、他の営業部長に会議の様子を聞いたら、「実際に動く担当がいないので11時まで会議はしたが、何も決まらず、夜食を出すかどうか、話し合って、次から夜食を出すことになった。お前のおかげで次から夜食が出る」と言って笑っていました。

 この会社の役員は与えられた環境を変えようと考える事もしない人たちばかりのようです。ビジネスの世界でも環境はどんどん変わってきます。その環境に合わせて、働き方も変えるのが当然です。

 星名先生と岡先生に教えてもらったことは「戦う環境をチームに有利な状況に作ること」です。重要なのはルールで常識やしきたりではありません。

 接待は相手が官庁でなければ認められている行為です。この業界が接待が受注するための重要な仕事なら、私は徹底的にやります。

 ある時、経理部長と話をしました。彼は私の数少ない理解者の一人です。「お前の課の領収書はすぐわかる。他の課とは桁が違う。他の課の領収書は近所の安い店のが多い。多分仲間内で飲み食いして接待費として落としているのだろう。お前の課は、近所の安い領収書が一枚もない。

 接待費の低率課税は資本金額により額が違い、一定額を過ぎると課税率が高率になる。我が社では接待費は低率課税の枠を各課に配分している。お前の課の超過分は高率の課税額をプラスして原価として計算しておくので、気にせずに接待しろ。社長からは浦野には好きにさせろと言われている」

 この時、初めて社長が陰で色々助けてくれている事を知りました。

イチジクのワイン煮

イチジクワイン煮

 スペインは豊富な食材が安く手に入ります。腹が減って思考が停止することはあまりありません。


2021-11-12

星名理論と岡理論 39 常識やしきたりを全てひっくり返す4

 祇園の伝統芸、 手打ち


 同志社でラグビーをして、星名理論、岡理論に触れ、一般社会常識からは大きく外れっていたようですが、たくさんの信頼できる友人に囲まれた普通の人ではできない経験をしたようです。特に、京都の祇園で過ごしたのも幸いでした。

 担当している旅行会社から東京の会社の創立50周年の招待旅行で顧客数百人を京都に招待して記念パーティを提案するのだが、競合になるので力を貸して欲しいと頼まれました。
 記念パーティは有名な歌手を呼びたいとのことでした。
 
 チェーンホテルの新規店オープニングキャンペーンで歌手を連れてイベントを行ったりしていたのですが、これはまかり間違うと、ヤクザとの揉め事になります。
 
 私達が芸能人と商談するときはコマーシャルやイベントなどの出演ですが、ホテルやクラブでのショーへの出演はギャラが特別に高くなり、ヤクザの縄張り争いにも関わってきます。これは通常、芸能人側のプロダクションが、事前に話をつけてある場合が多いのですが、時々もめて、嫌がらせを受けることがあるようです。

 私は歌手を呼ぶ案は最初から提案せず、京都でやるのであれば、祇園の芸妓さん、舞妓さんを沢山呼んで「手打ち」をするべきだと提案しました。
 
 「手打ち」は京都の祇園だけのあまり知られていない名物の一つになっています。 揃いの紋付きの衣裳に頭に笹りんどうの紋のある手拭を細くたたんでのせた芸妓さんが、手に紫檀の拍子木を持ち、それを打ちながら出てきます。そして舞台に上がり、唄を歌い、褒め言葉を言ったりして慶事のある席で披露されるものです。
祇園 手打ち
 手打ちの映像はこちらから

 伊藤のお母さんに相談したところ、「祇園に出入りしている大企業の重役からもこんな依頼は聞いた事が無い。ましてや、祇園に出入りしたことのない東京の中企業の50周年など、誰も相手にしない。しかし、あなたの頼みなら、私が芸妓を集めてあげる」と言って、祇園中の置き屋のおカミさんに直接、電話をして50人ほどの芸妓、舞妓を集めてくれました。50人ほどの芸妓と舞妓を集めると、祇園はほとんど空っぽになるとのことでした。

 広告業界は「義理と金」ですが、祇園には昔ながらの「義理と人情」が残っています。
 私は馬鹿げた一般常識やしきたりは全て無視しますが、古くても良いしきたりは大事にしたいと思っています。
 

2021-11-11

星名理論と岡理論 38 常識やしきたりを全てひっくり返す3



 女性社員の海外出張


 私のする事は全て業界や会社の常識やしきたりをぶち壊していて問題になっていたみたいです。

 私の部下の女性が担当したのは旅行会社でした。その会社の得意なのは国内では北海道、海外ではヨーロッパで特に、ファッション関係の買い物ツアーが得意でした。ヨーロッパの有名なファッションメーカーなどの協賛で、工場を見学したり、ショップで買い物をするツアーです。

 彼女が担当して1年ほど経ったとき、その旅行会社から、ツアーのキャンセルが出たので、安くするから私に参加してくれと言ってきました。私はファッションには興味がないので、彼女に行かせることにしました。

 これも会社で大騒ぎです。50年近く前で、国内出張するのも稟議書がいる時代で、海外出張など、テレビ局の招待で役員か部長が順番で一度だけ褒賞の意味で行くぐらいだったのに、入社して1年ほどの女性が海外出張など、とんでもない、と言うことみたいです。
 
 こんな馬鹿げた議論は無視して、スポンサーから要望の業務出張で彼女の指名があったことにして、強引に押し切りました。

 彼女はバスケットボールの選手ですが、白人の2世かと思えるほど色が白く、ファッションにも興味があり、フェラガモの靴を履いて、グッチのバッグを持って、仕事では歩くのではなく、本当に、走り回っていました。
 物おじしない、体育会系の男のようなさっぱりした気性は、スポンサーの中でも評判でした。

 誰が考えても、無口で無愛想で、ファッションにも無関心な私より、世界の最先端のファッションの会社を訪問するのには、訪問先の商品を実際に普段身につけている若い美人の女性が行ったほうが良いことぐらいぐらい、わかりそうなものですが。

 中年の女性が多い中で、若い彼女は非常に目だったらしく、訪問先のファッションメーカーの日本の仕事まで取ってきました。
 
 星名先生、岡先生に教えてもらった、一般的な社会常識や、前提となっている慣習などは関係なしに、「今しておくべき事」を徹底することは、本当に大事な事だと、改めて感じました。

 パリ 凱旋門 プロジェクション マッピング
2019年12月31日 旅行中のフランスのテレビ画面です。

星名理論と岡理論 37 常識やしきたりを全てひっくり返す2

 京都の祇園で芸妓さんを呼んでどんちゃん騒ぎ。


  星名先生と岡先生の教えを受けた私は、前提となっている業界や会社のしきたりとか慣習に囚われない、営業スタイルも無茶苦茶でした。広告業界は接待が激しいので、接待費は会社の割当額を大幅に突破し、目標の利益率の範囲内で好き勝手に使っていました。
 
 広告業界は提案が良いのは当たり前で、接待で勝たなければ、大手との競争には勝てない。岡先生が「フォワード戦に勝たないと試合に勝てない」と考えたように、私は接待戦に勝てなければ仕事は取れない、と思いました。そして最強の接待部隊を作ることにしました。
 
 私は同志社大学でラグビーをしていた時、高校から同期の伊藤(同志社が大学選手権初優勝したときの監督)のおばあさんの所に下宿していました。伊藤のお母さんとおばあさんは芸妓の出身で祇園で料理屋を経営しており、祇園では有名な人でした。
 そのおかげで、学生時代から祇園の芸妓さんに親しい人もいました。

 私が部下に伝えた方針は以下のようなことです。
 「スポンサーの接待は金に糸目はつけずに、回数を少なくして、超一流の所にしろ。個人や会社の仲間とは最も安いところ行け。重要なスポンサーは京都の祇園に連れて行け」 
 ゴルフが好きなスポンサーには小金井カントリー倶楽部、テニスの好きな人には東京ローンテニスクラブ、バーやクラブの好きな人には銀座、色々コネを使い道筋をつけました。

 このうち私が付き合ったのは祇園だけでした。私はゴルフ、酒はやらないので、食事以外は付き合えないと、スポンサーに宣言しており、部下が案内することをスポンサーに了解してもらっていました。
 スポンサーも、無口な私より、太鼓持ちの天才のような若い男性と、美人の若い女性と一緒の方が楽しいようでした。

 祇園は特別な社会で、まず一見さんは入れないし、祇園独特の慣習のようなものがあり、それを私は熟知していました。
 まず、普通の人が驚くのは、金を一切その場で払わないことです。いつも伊藤のお母さんの店で食事をして、そこに芸妓さん、舞妓さんを呼んで一緒に飲み食いし、次に芸妓さんなどと一緒に近所のバーに行き、カラオケなどで大騒ぎをして、そして最後はお好み焼き屋さんでお好み焼きを食べると言うのがコースでした。

 今はどうか知りませんが、当時はここまでは金を支払うことはありませんでした。全て、予約は伊藤の店がしてくれて、芸妓さんが案内してくれて、請求書が伊藤に周り、私は伊藤の店に一括して払うだけです。
 万が一、私が伊藤に金を払わなければ、全て伊藤が負担することになります。それほど祇園は信用が大事にされています。

 一度祇園を経験すると、大抵の人は、「年に1回か、2回祇園に連れて行ってくれるのであれば、銀座もゴルフもいらない」と言ってくれました。東京の大手の会社の広告発注担当者でも、銀座のクラブで飲む事はあっても、京都の祇園に行き、芸妓さんや舞妓さんと飲む経験はしたことがなかったようです。

 私は接待は苦手なので、部下の25歳ぐらいの男と卒業したての女性に任せきりで、時には二人が勝手にスポンサーを連れ、祇園に行っていました。夕方、仕事を早めに切り上げ、新幹線で京都に行き、祇園で芸妓さんと遊んで、祇園に泊まり、朝一番の新幹線で東京に帰ってきたみたいです。

 接待費はどんどん使うし、売り上げはどんどん取ってくるし、私の言う事はなんでも聞く、素晴らしい部下でした。


私が住んでいた祇園の近所 Google Mapより 現在の写真です。
祇園 住んでいた近所

2021-11-10

星名理論と岡理論 36 常識やしきたりを全てひっくり返す。

  星名先生、岡先生の教えを受けた私には、ビジネスの業界の常識や前例、しきたり等は全く関係ありませんでした。私の中にあるのは「今、なにをしておくべきか?」それだけでした。


 星名理論と岡理論  戦略の順序と時間配分で書いたように、重要なのは取り掛かる順序で、未来形ではなく、完了形でなければならないものです。

岡仁詩先生
岡先生 少しセピア
 
 私が働いていた広告業界は派手ですがあまり綺麗な業界ではありませんでした。接待が重要な仕事の一つであり、私は、無口で酒を飲まない、ゴルフをしないなど、広告業界の営業としては全く適性のない男でした。
 ラグビー関係で知人が多く、信頼もあったので、営業成績は悪くないのですが、業界や会社のあらゆるしきたりを破壊しまくりました。

 中堅の広告会社で、オーナー社長が私のことを信頼してくれていて、経営の実質は専務でしたが、「浦野は破茶滅茶だけど、会社のために体を張る男だから好きにさせるように」と言ってくれていたので、好きにさせてもらいました。

 私が課長になり、新しく課を作った時の部下は全員営業経験のない若い男3人でした。
さらに数ヶ月後、その年採用された4年生大学卒の女性が私の課に入りたいと言ってきて、すでに配属が決まっていたその女性を強引に引き抜き、会社は大騒ぎになりました。

 当時は4年制の大学卒の女性は就職が難しく、ましてや広告業界に女性の営業などほとんどいない時期でした。まず、大騒ぎしたのは同じ営業の女性社員でした。営業部に数人女性社員はいたのですが、ほとんどが雑用で、電話番、朝お茶を出したり、コピーを取ったりが主で、「私はそのような仕事は私の課の女性にはさせない」と宣言したためです。

 「私は営業部員を1名配属してもらっただけで、その分、ノルマを上乗せしているので、私の課専任の事務員ではない」と言うのが私の主張です。

 その女性を引き抜いたのは彼女の要望でした。彼女はすでに経営計画室に配属が決まり、働いていたのですが、営業希望で、私の課で働きたいとのことした。
 彼女は小柄ですがバスケットボールの選手で、体力や実行力があり、何よりも美人で人あたりがよく、人を煽てるのが得意で、私の持っていない、営業の必須の能力を全て持っていたからです。

 会社からはもうすでに決まった人事だから、1年待つようにと再三説得されたのですが、私は「待つのは無駄だ、改めた方がが良い事は。いますぐやるべき事だ」。私にとっては未来形ではなく、完了形でなくてはならないものでした。
 最後は「彼女に辞表を出させて、社長に頼んで経験者として再雇用してもらう」と脅かして、人事をひっくり返しました。

 私は彼女に「一人の営業として扱い、女性としては扱わないので、徹夜もあるし、出張や接待の席にも出てもらう」と話しました。

 彼女の偉かったことは私は彼女に「お茶を入れることはしなくて良い」と言ったのですが、朝一番早く来て、みんなにお茶を出し、それから営業の仕事についていました。

 私は私が担当していたスポンサーの仕事を彼女に担当させ、まず「金の交渉は全てお前に任せるから、金の交渉になったら、その場で判断して決めろ。いちいち、持ち帰って相談します、と言うな。少々赤字を出しても構わない」。

 そして、朝のお茶の仕事をやめさせるため、彼女にそのスポンサーに毎朝、1ヶ月間、直行して担当者を待ち受け、喫茶店でお茶を飲むように命じました。

 彼女は順調に成長し、数年後、今まで一番大きな新規の仕事をとってきました。

2021-11-09

星名理論と岡理論 35 岡先生とのやりとりについて 1

 岡仁詩先生の講演録


 星名先生、岡先生は私が同志社大学のラグビーの現役だった1960年代当時は、正式には星名学長、岡教授であったのですが、当時から同志社のラグビーの関係者は星名先生、岡先生と呼び、お二人のラグビーに関する考え方は星名理論、星名ラグビー、岡理論、岡ラグビーと呼んでいたので、私は当時のままに、星名理論、岡理論と書いています。

 岡先生は2007年5月11日、京都府内で同志社大OBに会った後自宅に戻る最中に倒れ、心筋梗塞で死去。享年77。
 翌日の5月12日に秩父宮ラグビー場で開催されたラグビー日本代表の強化試合(対クラシック・オールブラックス)では選手が喪章をつけて戦った、とのことです。

 岡先生のラグビーに対する考え方は岡先生講演録「教わり教え教えられ」が一番分かりやすい思います。
 岡先生の講演が記録されたのが2005年11月9日で、永眠されたのが2007年5月11日なので、この講演が最後だったのではと、推測しています。
 私が最後に先生にお会いしたのは、スペインに移住する前に京都で岡先生と奥様と一緒にお茶を飲んだ時で、最後に日本に帰った時は、もう10年以上前ですが、家にお邪魔して遺影にお会いすることになりました。

 この講演録の中で、岡先生は私のことについても触れられています。

岡理論、1基本とは何か


 この岡先生の講演録のことを知ったのは岡先生が永眠された後でした。
 岡先生がわざわざ、私のことに触れられているのは、「星名先生の理論を後世に残すように」とメッセージを残されたのでは、と思いました。

そして私は2012年に、同志社大学ラグビー部のOB会から寄稿を依頼され、星名理論について、「星名先生との出会い」で私の体験を書きました。

 私は現在76歳、あと1年で岡先生が永眠された歳と同じになります。 
 今は元気ですが、コロナ禍ではいつどの様になるか分からないので、もう少し、星名理論と岡理論について詳しく書きたかったので、ブログを始めました。

 「星名先生との出会い」の全文のPDFはこちらから