2024-09-20

岡理論 「フォワードは自分では前に走れない」

   岡理論の前回の続きです。

 
 岡先生は私が2年生の時、ディフェンスのやり方を私たちに選ばせました。ディフェンスにはMan to Man と Zone defense があり、Man to Manは全力で飛び出し自分のマークの選手を責任を持ってタックルするし、 ディフェンスは比較的ゆっくり出て、外へ追い出し、タッチラインと言う、絶対的なディフェンスの外へ追い出すか、相手はそれ以上は外へ走れないのでタックルがしやすくなる。
 初日はMan to Manだけの練習、次の日はZone defenseの練習、それぞれの長所、短所を説明しながら練習させました。
 
 そして3日目にチームとしてのディフェンスをどちらにするか決めろと言われました。
私に意見を求められたのですが、私はMan to Manと答えました。
 理由を聞かれたのですが、その時にはよくわからず、「ゆっくり出ると気持ちが入らない」と答えました。「全力で飛び出す時は、少しでも前で、絶対に倒すと言う意気込みが自分の中でも生まれて来て、闘争心のようなものを感じるのですが、ゆっくり出ると気が抜けたような気になる」
 岡先生は笑いながら「そうか」と答えただけで、「これからはMan to Manにする」と言って、飛び出すことに決めました。
 
 これは後から気づいたのですが、フォワードは最前線でスクラムやラインアウト、ラックでボールを奪い合い、そこで獲得したボールは後ろに回されて、自分達の前にボールが来るまではプレーには参加できません。
 
 バックスの最も重要な役割は「フォワードを前に走らせる場面を作ること」にあります。
 そのためにはアタックでは出来るだけ浅いライン(前で)で勝負をして、ディフェンスではできるだけ飛び出して相手陣の深いところでタックルをして、それで味方のフォワードを前に走らせ、相手のフォワードを後ろに走らせることにより、東京外国語大学が主体的思考で変貌したように、自分達のチームには正の連鎖(スパイラル)、と15人全員の相乗効果(シナジー)を起こすことができます。
 
 東京外国語大学の話はこちらから

岡理論 「ラグビーはフォワード戦に勝てなければ」

  岡先生は「たかがラグビー、されどラグビー、俺はラグビーに命をかける」と、言われて、ラグビーにかける思いを私に話されていました。

 そして岡先生のラグビーとはフォワードのことだと思えるほど、フォワードの強化には執念を燃やしておられました。
 
 岡先生は星名先生の教えを受けているので、当然同じ考え方だが、星名先生はバックスのセ ンターであり、岡先生はフォワードのフランカーであるので、岡先生の方がフォワードへの思い入れが感じられた。
 
 岡先生のラグビーの戦略的な発想の根本にあるのは「ラグビーはFW戦に勝たなければ試合 に勝つことはできない」と言うものである。特にNHK杯、日本選手権で優勝した時代にはスクラム へのこだわりが大きかった。
 
 岡先生が同志社大学のラグビーを率いて、最初に日本一になったのはNHK杯で優勝した時である。当時はまだ日本選手権というものはなく、社会人の1位と学生の1位がNHK杯を争うことで 日本1を決めていた。岡先生が率いる同志社大学は1962年にNHK杯を獲得し、1964年には NHK杯が日本選手権と変わり、その第1回で優勝した。
 
 当時は圧倒的にFW重視のチームで、特にスクラムへのこだわりがすごかった。当時の人に話を聞くと、「スクラムは組んで押すものではなく、組んで走るもの」と言っていた人がいるくらいである。
 
 そして実際の試合で、スクラムを組んで、押して歩き、最後はそのまま組んだまま走りだし、相 手のフッカー(スクラムの最前列の真ん中の選手)がボールと一緒に転がり出てきた」との逸話も ある。
 
  岡先生は前提となっている常識みたいなものさえ、疑って既成の枠にこだわらない、自由な発想を持っておられたように感じました。

 岡先生 セピア1
 以下は岡先生から聞いた話です。
 
 スクラムは通常、ハーフがボールをスクラムに転がして入れる時、アタック側のフッカー(スクラ ムの最前列の真ん中の選手)とボールを入れるタイミングを合わせ、フッカーが右足でボールを 味方の側に転がすようにする(フッキング)ので、フッカーはスクラムを押すのは左足だけになる。
  岡先生はフッカーにフッキングをするのをやめ、フッカーも両足で押すことを指示した。
 ほぼ対等だったスクラムでも後半になると、スクラムを全員で両足で押し続けた差が出てきて、 最初は同等であっても、最後はスクラムを圧倒するようになった。

新日鉄釜石のラグビーの基礎を築いた星名先生の高弟

    星名先生の写真を探していろいろな方にコンタクトしているうちに、偶然に日本のラグビー界のレジェンドの一人である市口さんと連絡が取れ、貴重な写真をいただきました。

 
 まず、市口さんの略歴(ウィキペでイアより抜粋、加筆)です。
 市口 順亮(いちぐち よしあき、1940年4月9日 - )は、日本の元ラグビー選手で、指導者。元京都大学ラグビー部監督、元新日本製鐵(新日鉄)釜石ラグビー部主将・監督・部長。大阪府大阪市に生まれ、大手前高校を経て京都大学工学部に入学。身長180cmを超える、当時としてはかなり大型の選手で、FWとして活躍し、4年生次は主将を務める。大学時代の監督は星名秦。
 1964年、大学を卒業して新日鉄の前身富士製鐵に入社し、同ラグビー部に入部。学生時代に星名に師事していた影響で、海外の最先端のラグビーに関する本に目を通していた市口は、1966年にラグビー部の副将となって、チームの指導の中心人物となった。
 そして1967年度主将、1968年には監督となって1970年度までチームの強化に努めた結果、1970年度には社会人大会で優勝を果たす。日本選手権大会では早稲田大学に敗れたものの、製鉄所の合併による廃部の危機は免れた。その後は新日鐵釜石ラグビー部副部長、部長を歴任。1978年度から1984年度まで前人未到の日本選手権7連覇の基礎を築いた人物の一人といえる。
 1993年度から2005年度まで京都大学ラグビー部の監督を務める。
 現在、日本全国のラグビー選手が普通に練習として取り入れているタッチフットは、市口が釜石の練習メニューとして全国で最初に導入した。

 星名先生と市口さん家族の写真です。釜石の白水荘の前で市口さんがシャッターを押されたので、市口さんは映ってはおりません。
星名先生、家族

 市口さんご自身の写真はフェースブックから勝手に取らせていただきました。市口さん

 お二人とも写真が嫌いで、探すのが大変でした。岡先生の娘さんが星名先生の息子さん家族とも親しいので、写真をお願いしたのですが、見つかりませんでした。
 星名先生のお孫さんとも連絡が取れ、写真を探していただいたのですが、見つかりませんでした。

 週刊現代が連載している2019年3月31日号の「男たちの肖像」にも市口さんのことが書かれています。写真は市口さんが週刊現代をご自分で撮影されたもののようです。
週刊現代記事
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