2021-10-01

星名秦先生の理論と岡仁詩先生の理論. 2

星名秦先生のファミリー写真


当時のバックスのアタックラインは深い(ゲインライン、敵から遠い)のが主流でした。同志社はその頃珍しい浅いアタックラインで、その中でも私は最も浅い位置に立ちプレーができる選手だと自負していました。

 

 1963年3月に第一回の日本選手権があり、同志社は八幡製鉄、近鉄を破り、優勝しました。私はその1ヶ月後の4月に同志社大学に入学しましたが、その年の6月にはもう1軍に入れてもらっていました。

 秋からはシーズンが始まり、左センターで、その時のコンビを組んだ左ウイングは坂田さんで、国際ラグビーの殿堂入りされた、世界的な選手でした。

  坂田さんの詳しい情報はこちらから

 

 1年生から1軍に入れたのは、私がアタックの時、突破する位置が非常に浅い(敵のゴールラインに近い)のでトライに結びつき易いのが評価されたものです。

 しかし、星名先生の「スタンドオフの横に立ち、さらにスタンドオフより先にスタートしろ」には本当にびっくりしました。このようなことは考えたこともありませんでした。

 

このような会話からはじまった星名先生の指導はそれから毎日続いた。

しかし練習ではなかなかうまくいかなかった。ディフェンスの選手が二人の会話を聞いて私の走るコースを読んであまりスピードを落とさずに私の次に走るコースへ走ってくるからだ。

 

 練習ではうまくいかないので、次は試合で試すことにした。中部自衛隊との練習試合があるのでその時に試すことにした。

 ところが試合ではもっと悲惨だった。向かってくる相手にはタックルすることしか考えていない自衛隊のセンターはまったくボールを持っていない私にタックルを繰り返した。

 レフリーもボールを持っているスタンドオフより前に走って行く私とまだボールも持っていない私にタックルする自衛隊の選手を見て何か不思議なことが起きているように見ているだけで、何度もノーボールタックルされている私を見ていながら一度も笛を吹かなかった。


 

  レフリーがノーボールタックルを取らなかった理由は



                     岡先生

 

 岡先生のラグビーに対する考え方は 岡先生講演録 をご覧ください。

 この色で書いている部分は私が同志社大学ラグビー部のOB会に寄稿したものの一部です。

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