40年ほど前のラグビー専門雑誌の記事です。友人からもらいました。岡先生が選んだ同志社OBベストメンバーに何故か私が選ばれていました。非常に名誉なことです。
私が本格的にラグビーをしたのは高校と大学だけですので、同志社大学在学時のプレーを基準に選考されたのだと思います。
同志社のセンターで日本代表になったセンターはたくさんいます。日本代表候補にもなったことのない私をあえて選んだのは岡先生がプレーの独創性を好んでおられたからだと思います。
私は右センター(13番)が本職で、平尾は左センター(12番)を大学の時にはしていましたが、何故か逆になっています。多分、私をインサイドセンターとして平尾をアウトサイドセンターと考えて選んだものと思われます。
前回、 林敏之氏(ダイマル)と日本ラグビー協会会長、土田雅人氏との対談の中で平尾の話として「これで完璧な試合運びだと思っていたら岡先生に、おもろない、こうするだろうと思うとその通りにする。相手に予測できないプレーをしろよ」と言われた、とのエピソードがありました。
お二人の対談はコチラから。
岡先生が私のプレーに注目したのは1年生の時の夏の合宿からでした。春のシーズンの最後の試合でAチームに入れてもらったのですが、夏の合宿はBチームからのスタートでした。ABの練習試合でBのセンターだった私は何度もフォワードの真ん中を突破しました。
試合の笛を吹いていた岡先生が「よく抜くな」と声をかけてくれました。試合が終わった後、岡先生が私のところにやってきて、「フォワードの真ん中をよく抜けるな。うちのフォワードは日本一のフォワードやぞ、なんでや?」。
その通りで3月に同志社は八幡製鉄、近鉄と言う社会人の1位、2位のチームを破り日本選手権で優勝をして、卒業生は出しましたが、それでもトップレベルであることは間違いありません。
「スクラムとかラックからフォワードは全員フォローやディフェンスに向かって走るので、今までいた位置だけが空っぽになるからです」「なるほどな、言われてみると納得するけど、こんな話聞いたことがないぞ」「私も最初は気づかず、空いている場所を目掛けて走り込んだら、今までフォワードがたくさんいた場所だったので、気づきました」
これ以後、岡先生は私のプレーを注視されているようでした。その後すぐにAチームに戻され、4年間ほとんどの試合に出ることになりました。
前回の記事に書いた近鉄の試合で私がラックに走り込んだのを見て、びっくりされたようですが、さらに驚いたのはラックで肩を付けて押すのではなく、相手の選手の隙間を通り抜けて相手のボールを蹴り出して、それを拾ってトライするなど、誰も考えたことのないようなプレーをするのが、非常に面白く感じられたようです。
次回から、岡先生が驚かれた私の常識はずれのプレーについて書いてみようと思います。
0 件のコメント:
コメントを投稿